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プロローグ
単語帳をめくる指先がピタリと止まる。
バスの中は暖房が効き過ぎて、ダッフルコートとマフラーとイヤーマフを合わせた私は、少し汗ばむくらいだった。
中学三年生の冬。
当時、私はバスで片道二十分ほどかけて、私立の女子中学校に通っていた。
前の日に小テストの勉強で夜更かししていたせいで寝坊してしまい、一本遅い時間帯のバスに乗ったら、通勤ラッシュに巻き込まれてしまったのだ。
人混みにもまれて左手で吊革を掴んで、右手では小テストの勉強のための単語帳をめくる。
揺れが起きても転ばないように足に力を入れて立っているのだけでもしんどかったんだけど、ふとスカートのあたりに違和感を覚えた。
――今まで痴漢になんて遭ったことがなかったのに。
声を上げる勇気なんてない。
首に巻いた白の毛糸のマフラーに、顎をうずめて身をかたくする。
せっかく覚えたはずの英単語も、全部ばらばらになって頭からこぼれていった。
席に座ってスマホの画面を指でなぞる人、近くの吊革を掴みつつもヘッドホンを被っている人。
きっと私が助けを求めたら、皆たすけてくれるに違いなかった。
だけど、声なんか出なくて、身体に触れる手を振り払う事もできない。後ろに立つ人の顔を確認することさえ怖くてできなかった。
バスの中は人でいっぱいで、おしくらまんじゅう状態で、すぐ近くにたくさんの人がいるのに。
この中の誰一人にも気づいてもらえない。
とんでもなく心細くて泣きそうだった、その時。
「おい、何やってんだ」
剣のある声に振り向く。
塞がりかけたピアスホールに、黒なのかこげ茶なのか微妙なラインの髪色といった風貌の大学生。
その人が、私の後ろに立っていたつなぎを着た若い男の手首を掴んでいた。
同時に、身体の違和感が消えていることに気づく。
私を傷つけた痴漢は成人男性だったけど、たった一人気付いて助けてくれたその人もまた、大学生で成人男性だったのだ。
もしもこの大学生が助けてくれなかったら、とんでもなく悲しくて怖い思いをしたままだった。
大学生が手早く降車ボタンを押して、バスが止まる。
そのまま引きずるようにして私に悪戯した人と一緒に降りて、私も二人の後を追うように降りた。
痴漢は道中意外にも大人しく、交番に着くなりうなだれて自分の行為をあっさり認めた。
大学生と私は警官に厳しく尋問されるその人を黙って見ていた。
奴は動機について「仕事でストレスがたまっていて。かわいいなと思って毎朝見てたんですけど……」とか何とか述べていた。
「かわいい」と言われて「気持ちわるい」と嫌な気分になったのは初めてだった。
私も一言二言何かを警官に訊かれた後、調書を取られて解放された。
大学生が「バス停まで送るから」と言ってくれた。
学校へはまだぎりぎり間に合う時間でよかったと思う。
バス停にたどり着くなり、気を張っていたのがようやく落ち着いた気がした。
緊張の糸が切れて静かに涙を零す私に、大学生は携帯からストラップを外して差し出した。
「k2」とペンで走り書きされたネームプレートに鈴が付属している。
「俺、普段あんまりバスとか乗らないから。何かまた変なことされたらそれ鳴らせば。『助けて』って言えなくても誰か気づいてくれるよ」
あまり抑揚のない眠そうな声だったけど、そのセリフに思わず顔がほころんだ。
「あの、k2って何ですか? 芸名とかですか?」
「暗号、みたいなもの」
その態度が、ちょっとそっけなくて、それが寂しい。
……それにしても暗号って。
なんで名前を書く欄に暗号?
不思議には思ったけど、たずねる間もなく二本目のバスが来た。
空いていて、席も余っているようだ。これなら、さっきみたいなことは起こらない。
停留所の前にバスが停まり、扉が開く。
ステップに足を掛けた。
「まあ、もし、また――――」
私がバスに乗り込む間際、大学生は、何かを私に向けて言った。
何と言ったのか今となっては思い出せない。
当時の私はとても感動して、思わず毎朝手作りしていた自分のお弁当を押し付けたくらいなのに。
鈴のストラップのことばかりが印象に強く残っていて、いつしか記憶からそのセリフは抜け落ちてしまった。
感謝してもしきれないその人とは、あの後一度も会えていない。
あれ以降、痴漢にも遭う事はなかった。
鈴に付属したネームプレートの「k2」の解は導き出せないまま、あれから数年が経つ。
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