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「あちぃー……」
職場を出てすぐに出たのが、そんなひと言。
ただいま七月中旬、お天道様は元気いっぱい、かんかん照り。でも俺の疲労は、ピークに達しております。
大学に入り、一人暮らしをはじめて早三ヶ月。
新生活にようやく慣れてきた頃合いだ。だからだろう――溜まっていた疲れが、どっと押し寄せてきた。
今日、バイトでミスをしてしまった。入りたての頃にやらかしてしまったのと同じ失態だった。店長に厳しく叱られてしまい、カバーしてくれた先輩には心配されてしまった。
どちらも俺の罪悪感をおおいに高めるもので、体が重くなる。
「マジでたるんでたなぁ……」
しゃきっとしなくては。
ただでさえ、前期試験が間近に控えてるからと、シフトを減らしてもらっているのに。
これ以上甘えてはいけない。
ああでも、今日は本当に疲れた……。
アパートの駐輪場に自転車をとめ、部屋に向かう。
こんな日はさっさと休んでしまおう。
晩飯はどうしようか。
冷蔵庫はすっからかんだったな。いや、あったとしても、ろくなものは作れないだろうけど。
実家を出る頃は”俺も自炊できるように”とはりきっていたけれど、思いのほか大学生活が忙しくて、正直台所に立つのがめんどくさくなっていた。それを抜きにしても、ほぼ初心者の俺が料理をイチから覚えるなんて、ハードルが高すぎたんだ。
……今は、自分で食事の支度をしないといけないんだよな。
実家にいた頃は当たり前のように母さんの手料理を食べていたけど、そのありがたみが、今になって身にしみる。
いまは夜の七時前。あっちでも、そろそろ夕飯どきだろう。
母さんと下のきょうだい達が、にぎやかに食卓を囲んでいるはずだ。今日は土曜日だから、父さんもその輪に加わっているだろうか。
大の男がホームシックなんて、みっともないかもしれない。
だけどいま、ほんのちょっぴりだけど――帰りたいと、思ってしまった。
あの田舎町には、俺の大切なものがたくさんあったんだ。
温かい家族。気の合う友達。そして……。
ある人物が頭に浮かんだところで、カバンが震えているのに気づく。
中にあるスマホが、着信しているのだ。
見てみれば、やっぱり通話が来ている。その相手は……。
「……っ!」
それまでの疲労が、一気に消え失せる。
頭の中で花が咲いたみたいだ。嬉しすぎて震えはじめた指で、応答ボタンを押す。
「千夏(ちか)~っ! どうした!?」
大喜びで応答した俺に、通話の相手は呆れている様子だった。
「……相変わらず元気ね」
鈴の転がるような可愛らしい声に、俺の嬉しさメーターがぎゅんぎゅんと上昇していく。
「いや、だって、千夏が通話をかけてくれるなんてめったにないだろ? そりゃあ元気出るってぇ~!!」
階段を上がりながらルンルン気分で話す。
千夏は自分からコミュニケーションをとりたがるタイプではない。
そこが猫みたいで可愛いんだけど、寂しくもあった。
だからいま、めちゃくちゃ幸せだ。
叶うなら今すぐ抱きしめて頭をよしよししたいところだけど、それは難しい。
まあ、でもいいか。
こうして千夏と話せるだけで、今日はめちゃくちゃラッキーだったんだ。おかげで明日からも頑張れる……と思っていたら。
「……だって、帰ってくるの遅いから。ずっと待ってるのに」
「へ?」
え、いまなんて? ”ずっと待ってる”?
「ち……千夏? いま、どこに……」
いるんだ、と聞こうとした声が、空気に溶けて消えた。
ようやくたどり着いた部屋の前に、千夏が立っていたからだ。
ドアに背を預けていた千夏は、俺に向き直る。
ちょっとばつが悪そうに眉根を寄せながら、俺を見つめている。
「……お帰り」
彼女の口を突いた四文字は、スマホ越しに聞くよりずっとリアルで、愛らしくて。
俺はたまらなくなって走り出し、小柄な体を抱きしめた。
*
千夏は、俺の恋人だ。
高校の同級生で、付き合いはじめてそろそろ二年になる。
照れ屋ゆえにちょっと愛想がなくて誤解されやすいけど、本当は誰よりもピュアで優しい子だ。
俺はそんな彼女が可愛くて仕方がなく、高校時代はひたすら構い倒していた気がする。
だけど、進学を機に遠距離恋愛がはじまった。
千夏は、地元から通える短大に進んだのだ。
「あんたと一緒にいたいからって理由で、将来を妥協するのは……なんか、違うでしょ」
そう言いながらも、散々悩んでいたのは知っている。
だけど千夏の学びたい学科は、俺の大学にはなかった。だから俺たちは、別の学校に進んだんだ。
快速電車で一時間ちょっとなんだから、そんなに”遠距離”ではないだろう。
世の中には、もっと離ればなれになってしまうカップルもいるはずだ。
それはわかっているけれど……やっぱり、寂しい。
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