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後片付けはすると申し出たものの、千夏は俺の顔をじっと見つめて、「別に、ついでだからいいよ」と、有無を言わせぬ様子で台所に立ってしまった。
流しの前にふたりも立てるほど、台所は広くない。
俺は素直にうなずいて、ベッドに腰を下ろした。
……ひょっとして、気づかってくれてるのかな。
ふだんから親切な子だけど、今日は一段と、世話を焼いてくれている気がする。
……ダメだなあ、俺。忙しいのは千夏も同じなのに。
千夏もバイトを始めたと言っていたし、相変わらず、家事もやっているのだろう。
たまに会えたときくらい、俺が千夏を元気づけたいのにな……。
「……な~に、暗い顔してんの」
はっと顔を上げれば、いつの間にか目の前に千夏が立っていた。
俺の顔をのぞきこんで、つんっとおでこを突いてくる。
「……や~だぁ、そんな暗い顔してた?」
「うん。してた。この世の終わりみたいだった」
笑ってふざけたつもりだったけど、千夏は大真面目な顔でうなずいた。
ぽかんとしていると、千夏が俺の隣に座る。
じっと俺の目をのぞきこんだまま、今度は頬に手を伸ばしてきた。触れた手のひらは、洗い物をしていたせいかひんやりしている。
「疲れてるんでしょ?」
「なんで……」
「わかるよ、それくらい」
ふいに千夏が、柔らかく微笑んだ。
付き合ってから時たま見せてくれる、俺の大好きな表情だ。
「通話してて気になってたけど、声が落ち込んでたし」
「え……声に出てたんだな。五月病ならぬ、七月病ってやつかな。新生活の疲れが出てたのかも」
しゅんっとうなだれながら言うと、千夏が俺の頭を撫でてくれる。
ほっそりとした指の感触が心地よくて、俺はついつい、弱音を吐いてしまう。
「だからか、わかんねえけど……バイトでちょっと、やらかしちゃってさ。あー、俺ダメだなあって、思ってた」
「……うん」
「やっと仕事を覚えられてたのに、情けねえよな。千夏だって頑張ってるのにさ」
「別に、情けなくない」
きっぱりと言いきった千夏は、まっすぐ俺を見つめた。
「疲れてるのに精一杯頑張ろうとするあんたは、えらい。バイトだって、仕事を覚えようと必死だったんでしょ。勉強も手を抜いてないんだって、この部屋を見てたらわかるよ」
千夏が目を向けたのは、俺の勉強机。
そこには書きかけのレポート用紙が山積みになっていた。今朝ようやく完成したレポートの、ボツになったものだった。その近くには、レポートを書くときに参考にした本が散乱している。
……俺からしてみれば”もうちょっと片付けろよ”としか思えないんだけど、千夏はそれを、”頑張ってる”と受け取ってくれたんだな。
「あんたが、ふだんおちゃらけてるけど本当は真面目な頑張り屋だって、……ちゃんと、知ってるよ」
「……千夏……」
情けない声で呼ぶことしかできない俺に、千夏がくすりと笑った。手を伸ばし、抱きしめてくれる。
「えらい、えらい。……頑張ったね」
……ダメだ、涙腺が刺激される。
照れ屋で不器用な千夏は、言葉がキツいときはあるけれど……本当は誰よりも思慮深くて、おせっかいで、……とても優しい。
「……調子が悪いときくらい、甘えたら? なんのために私がいると思ってんの」
「……ん。ありがと」
小さな背中に手を回し、強く抱きしめる。
肩に顔をあずける俺の背中を、なだめるようにさすってくれた。
「……なー、千夏」
しばらくしてから名前を呼ぶ。
「千夏のおかげでだいぶ元気でたんだけど、……膝枕なんかしてくれたら、もっと元気出たりして!」
甘えと、ちょっと下心を込めて。
千夏の顔をのぞきこむと、その頬が赤くなった。
「ばーか」なんて毒づきながらも、千夏は体勢をととのえ、ひざをポンポンと叩いてくれた。
膝に頭を乗せると、柔らかい感触と、かすかな柔軟剤の香り。
ちょっぴり汗のにおいがするのは、暑いなかわざわざ俺に会いにきてくれた勲章だ。
大好きな彼女のにおいをひとり占めしていると、眠くなってきた。
まぶたが重たくなっているのに気づいた千夏が、肩をトントンと叩いてくれる。
「――おやすみ、恭太郎(きょうたろう)」
「ん……おやすみ……」
まるで母親に寝かしつけられる子どものように、俺は目を閉じた。
そしてあっという間に、眠りの世界に引き込まれていった。
たっぷりの安心感としあわせに、満たされながら……。
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