序章

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序章

 その庭には光が満ちていた。その庭には影がなかった。すべてが光の恩恵に浴していて、すべてが眩い白銀だった。その白銀をのぞき、この庭には色彩がなかった。はるか高みに広がる空だけが、澄んだ青を呈していた。  開かれた傘が地面に転がっている。地面には、幼子が寝転がれそうなほどに大きな本が、半ば白紙のまま開かれていた。筆記具としての羽根が顔料の詰まった小さな壺に挿されて本の傍らに置かれている。傘と本は泉の岸に置かれていた。泉の水面は平坦で、過剰に降り注ぐ光を弾いて白銀に輝いていた。庭を囲む壁は薄い石の層を重ね、空たる青の天蓋だけを出口としてそびえている。壁には茨が這い伝っていた。  その庭には宝石の雨が降っていた。原石のままのもの、研磨されて輝きを増したもの。過剰な光を弾き切ってしまうそれらの結晶鉱物に色はなかったが、色はわからなくとも貴石であることだけは確かなものが、その庭には降り続けていた。  十をひとつふたつ過ぎた年の頃を容姿とする少年が、手にした銀皿に地に転がる宝石を拾い集めていく。やわらかそうな肌も、膝までを覆う上衣も、まっすぐな長い髪も、均整のとれた愛らしさをふりまく少年の彩りは、庭に降り注ぐ光そのものだった。  銀皿いっぱいに宝石を拾った少年は、傘と本をつないだ線を一辺とした正三角のもうひとつの点にあたる、泉を挟んだ対岸に佇む時計のもとに運んでいく。  少年が時計の前に銀皿を置くと、幼さを残す指が山と積まれている宝石の一粒をつまんだ。ゆったりとした動きで腕があがり、薄く開いていたちいさな唇に、つままれたきらめきが吸いこまれていく。つまんでいた宝石を口に放りこんだことで空になった指先を銀皿に戻し、また、宝石の一粒をつまんで唇に運ぶ。一連の動作が滞りなく繰り返されることを確かめてから、運んできた皿と並んでいた空の皿を、少年は手にした。 その庭にはよく似たかたちをしたものが三つあった。正確には、ふたりがいて、ひとつがあった。  ひとつとは時計のことだ。髪が顎のあたりで揃えられていることを除けば、上半身は少年と同じ姿をしていた。時計の腹から下は庭の地面そのものと融合しており、閉じられているか伏せられているかしている目は、上衣に覆われた臨月のような腹を見つめている。  ふたりのうちのひとりとは宝石を集めている少年であり、ふたりのうちのもうひとりとは、傘の下で眠っている少女のことだった。少年と少女の姿はあまりにもよく似ているため、少年が少女と、少女が少年と名乗ったところで、見破ることはできないだろう。  宝石の雨粒は間断なく空から落ちてくる。少年は庭中を駆け回り、銀皿に宝石を集める。噛み砕き、腹に落とす間隔を等しく維持しながら、時計は宝石を食べ続ける。少女は傘の下で眠り続けている。  彼らの下にも、壁の茨の下にも、銀皿の下にも、傘の下にも、影は無い。  少女の唇がかすかに震えると、音律が紡がれ始めた。少女の歌に気づいた少年は、銀皿をその場に置いた。銀皿が地と接したことで、皿に盛られている拾い集められた宝石が互いを弾き、空に抜けていくような涼やかな音を立てる。庭を駆け抜け、瞼を落としたまま歌う少女のかたわらを通り過ぎ、開かれた本の前に辿り着いた少年は、筆記具を手にして本によじのぼり、見開きのページの上に膝をついて、そこに綴られている最後の行を探す。探していた文字の途切れを見つけた少年は、最後の行の下に新たな一行を刻むべく、少女の歌に耳を澄ます。  時計は宝石を口に運ぶことを繰り返す。傘は宝石を弾いて庭に落とす。  少女が音として紡ぐものを、少年は文字として綴っていく。
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