第1章01

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第1章01

 飛来した矢が木の根に突き刺さる。一瞬前までそこにあった踵が宙に浮き、離れたところの土を踏む。  無数の矢は、森を駆ける少年を的として放たれる。  通り道を塞ぐ倒木を跨ぎ、枯葉の沼に飛びこみ、枝に垂れ下がる蔦の網を跳ねのけて、振り返ることなく少年は走る。射掛けられる矢は倒木に刺さり、窪地に溜まった落ち葉をまくりあげ、蔦の幕をたわませて、先へ進むことを止めた。  薄ぼんやりとした光が、霧のように森を包んでいる。平坦な影として並んでいる樹木は、枝という骨の傘を広げて絡み合っていた。  身を低くして、地を這うように駆けていた少年が、老木の陰に滑りこむ。高いところでひとつに束ねられた少年の黒髪が、細長さを印象とする身体の後を追って流れる。その軌跡を、鏃が穿つ。少年が背を預けている太い樹幹に、少年を追いかけてきた矢が次々と突き刺さる。肩で息をしながら、少年は後方をうかがう。枝の折れる音や短い悲鳴といった騒がしさが、風に乗り、少年の耳に届く。少年の紫の目に喜色と安堵が浮かんだ。  ぼやけた光が漂う森には、霧雨のような粒が絶え間なく降り続いていた。少年の肩をかすめて、枝の傘に積もりきれずに零れた、砂とも雪ともつかないものが落ちていく。 「罠を仕掛けるなんて小賢しいね、獲物」  うかがっていた方向とは別の方角から投げかけられた声に、少年は切れ長の目をわずかにみはった。一見すると青年のようでもある少年の、驚愕により一瞬だけ幼さを帯びた印象は、眠たげな瞼が復活することで薄まりはじめ、目つきの悪さが露呈することによって霧散する。  上方に視線を移し、樹上に目を凝らした少年は、そこここに弓に矢をつがえた人影を見つけることとなった。  齢を重ねた男の声が、穏やかな調べとなって、森に響く。 「私の配下のものたちは、野兎や野鼠ではない。吊ったり挟んだりするのはやめてやってくれないか」  樹幹に背を預けたまま、少年は前方を睨んだ。森を成している樹木の集合であるところの無数の影の林立に、ひとつだけ、ひとのかたちをしている影を、少年は見つける。 「素人のつくった罠にひっかかる奴が間抜けなんだよ」  少年の辛辣さにつつかれて、影から返る声は楽しげだ。 「そんなことを言わないでおいてあげておくれ。我々は、追い詰めることは得意だが、避けるということには慣れていないんだ。そして、我々は森を進むことにも慣れていない。君ほどにはね、嵩見(かさみ)」 「なら、さっさと家に帰ればいい」 「君を捕まえなければ帰れない。そういう命令だ」 「お姫様のわがままに付き合うのも」  嵩見の少年の背が樹幹から離れる。 「大変だな!」  老木の根を、嵩見の踵が蹴った。会話の相手の声が放たれてくる方角には進まず、嵩見は横に進路をとる。樹上から矢の雨が嵩見の後を追って降り注ぐ。的に当たることなく方々に散る鏃は、樹皮を剥ぎ、樹幹をえぐり、細枝を貫いて破砕した。  はるか上方から絶え間なく降り続けている細かな粒が、落下の過程で七色にきらめく。石とも塩ともつかないその粒は、樹上に積もることはあっても地に積もることはない。地に落ちたそれは、雨粒が地に吸われるように、あとかたも無く消えていく。  それまで森と同化していた影が、老木の根もとに姿を現す。灰色の短髪の小柄な男が、嵩見にかけていたのと同じ穏やかな声をもって、茂みに、樹上に、森に潜ませている人影のすべてに命じる。 「追い立てろ」  多数の人影が、一斉に標的を追い始めた。風が生まれ、木々の間に、黒の薄布がたなびくような残像が流れていく。  転がるように駆けていた嵩見の肩を、矢羽根がかすめた。少年に射かけられた矢は、的を追い越して、的よりも先へと進んでいく。 「しつこい」  手近な枝を両手で掴み、少年は足を浮かせた。浮いた足もとに次々と矢が突き刺さる。少年に掴まれた枝がたわむ。たわんだ枝を軸にして、少年はそれまでと進む向きを変える。しなる枝の元に戻ろうとする反動を勢いに、枝を離した少年の身体は中空に放り出された。 「そうであるのなら、さっさとこちらに来ればいい」  獲物の足跡を正確に辿り、男は歩を進める。 「我らが姫は満ちるということを知らない。己の欲求に忠実で、貪欲だ。そのことは、誰よりも君が知っているはずだろう」  傾斜に着地した嵩見は前のめりになり、後方から追いかけてくる温厚な威圧に舌打ちをする。 「そろそろ逃げ切ることを諦めて、こちらに来たらどうだろうか。ああ、来る、ではなかったな。戻る、だったか。姫が満足しないかぎり、我々猟犬は追いかけるものに事欠かない。だから退屈などしない。暇などとは無縁だ。日々における出来事の緻密さ。それこそが至高の報酬。姫はそれを君に与えることができるし、君に与えたいようだよ」  落ち葉を跳ね上げ、転がるように傾斜を駆け下りていく少年の、いらだちを隠すことのない声が男に投げつけられた。 「遠慮する。あんたに手柄を立てさせてやる義理はない。それに、俺は怠け者なんでね。賭けごともできないような退屈のなさなんて願いさげだ。勤勉さは肌に合わない」  悠然と歩く男を追い抜いて、放たれた矢は地形に沿って落ちていく。嵩見の足が平面を踏み、沈む。底無し沼が生き物を呑むかのように、降り続ける粒に覆われていた平面は、踏みこんできたものをやわらかく迎え、みるみるうちにその足首までを包んでいく。慌てて後方に跳ねた嵩見の下で、歪んでいた平面は元に戻り、そこに積もっていた微細な粒を煙のように巻き上げた。  森に満ちているぼんやりとした光を弾いて、粒でできた煙は七色のきらめきを撒く。それまで平面を覆っていた膜はきらめきと化し、枝と蔦の織物があらわになる。粉雪に埋もれていた網を上下にふるったがごとく、植物でできた平面が揺れる。蔦草でできた網目は粗く、その隙間から覗くのは、夜空のような暗闇だけだ。はるか上空から降ってくる粒が、きらめきを放ちながら闇に落ちていく。  奈落の淵でかろうじて踏みとどまっていた嵩見の背に、穏やかなだけの、面白くもなさそうな声が投げかけられた。 「罠にはまったのは、どちらかな」
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