眠らない男・田中

2/8
前へ
/8ページ
次へ
 田中が働く会社は掃除用具を販売する小さな会社だ。掃除用具はデッキブラシやトイレブラシといった小物が多く、数を売らねば社長が課すノルマなんて達成できない。仕入れは安く、高く売る。あこぎな商売だ。毎晩遅くまで企業や民家を訪問して歩き、会社に戻ってからは受注品の準備をし、それから事務所のパソコンを立ち上げて報告書を作成し、翌日の詳細な予定とノルマ達成に向けての計画書の修正など膨大な事務仕事をこなす。  寝る間なんてない。それでもやらなければいけない理由があった。  田中の実家は貧しかった。田中の父はテーラー田中という洋服の仕立て屋を営んでいたが、センスがなかった。おまけに不器用だった。当然ながら注文はほとんど入らず、家計は火の車。それなのに父は「男がいったん始めたことは死ぬまでやり抜くんじゃ」と無駄に一本気なところがあり、そのせいで母は朝から晩まで働いた。だから生活はいつもギリギリだった。それでも両親は一人息子の将来を考え、田中を大学に進学させた。20年以上も前の話だ。当時は大学を卒業すればいい会社に就職できるという風潮があった。進学させることが子どもの将来のためという考えが蔓延する時代だった。  そんなこんなで田中は大学に進学したわけだが、在学中の生活費は田中がバイトで稼いだ。両親は学費を捻出し(後に聞いた話だが、母がへそくりを貯めていたらしい)、わずかだが仕送りもしてくれた。  いつか両親に恩返しがしたい。それが大学を卒業して、田中が持つ素直な気持ちだ。  だが現実は厳しい。大学を卒業して就職した最初の会社は長く続かず、すぐに見つかるだろうと思っていた再就職先も見つからず、田中はずっとバイトを掛け持ちして働いてきた。いまの会社は40歳を過ぎ、やっと正社員として採用された会社だった。そのことを両親は喜んでくれた。  心配ばかりかけてきた両親を裏切るわけにはいかない。だから必死でやるしかない。とにかく眠ってなんかいられない。  田中は入社以来、ほとんど寝ずに仕事をしている。迷える子羊だった。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

11人が本棚に入れています
本棚に追加