眠らない男・田中

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 昼を迎えた。田中の胸の内を映すように、空はどんよりとした灰色の雲に覆われている。やる気はあるのに眠気ばかりが襲ってきて、田中はふらふらしていた。  眠い。とにかく眠い。だけど、そんなこと言ってられやしない。どこか売れそうなところはないかとひたすら探して歩く。やがて町の外れにある古びたコンビニの前を通りかかった。自動ドアの前に置かれた看板には蜘蛛の巣がかかっている。窓ガラスも曇っていて、汚いコンビニだった。  これはいいぞ。さっそく営業に飛び込む。 「いらっしゃい」  踏み入れた店内は白い床が黒ずんで見えるぐらい汚い。  これはますますいいぞ。高揚する気持ちを抑え、田中はカウンターの向こうに立つ店員に声をかける。 「私はこういう者です。店長に会わせてください」  店員に名刺を差し出す。店員はまだ若い男で、いかにも気が利かなさそうな、ぼんやりとした表情で名刺を眺めたあと、 「なに? 営業? 店長なら出かけてますよ」  店の雰囲気にぴったりの不愛想な返答をした。 「お帰りはいつごろになりますか?」 「知りませんよ」  取りつく島もない。田中は舌打ちをして店を出ようとした。とそのとき、カウンターに置かれた小さな(のぼり)に目が留まった。 「『24時間働きたい人に朗報。もう眠らなくても大丈夫。睡眠時間を飲めます。そんなドリンクあります』。なんだと?」  思わず声に出して読んでしまった。そんなドリンクなんて聞いたことがない。すぐに田中は店員に詰め寄る。 「睡眠時間が飲めるドリンクだと。ウソだろ?」 「書いてある通りですよ」 「じゃあ、どんな成分が入ってんだ? 仕組みはどうなってんだよ」 「僕はバイトですよ。成分とか仕組みとか、そんなのわかるわけないでしょ。とにかく書いてある通りですから。それを売るだけですよ」 「どうせ普通の栄養ドリンクに、ラベルを貼り替えて売ってるだけだろ」 「なに言ってんの、お客さん。このドリンクはコンビニ限定の新商品だよ。お客さんが知らないだけでしょ。とんだ言いがかりだ」  田中のことをクレーマーと思ったのか、店員が横柄な態度で答える。そんな客を客とも思わぬ態度に、同じ客商売をする田中がキレる。 「なんだその態度は! ふざけんじゃないよ。そんな胡散臭いもん信じられるかって言ってんだよ!」  朝から社長に怒鳴られた憂さが溜まっていて、ついカッとなった。だが店員は顔色ひとつ変えない。少しだけ口調を改めて説明をはじめる。 「信じるも信じないも、お客さん次第。僕が知っていることを説明するとですね。ドリンクの成分は睡眠そのものということです。いつも6時間の睡眠を取る人が徹夜をしたとき、6時間の睡眠不足になるでしょ。そういうとき、このドリンク、名前は『おやすみノンタイム』って言うんだけど、この『おやすみノンタイム』を6時間分飲めば、6時間寝たのと同じ状態になるんです。つまり6時間分の睡眠を一瞬で飲めるというわけです」  睡眠が飲める、そんなドリンクがこの世に存在したなんて。本当に自分が知らないだけなのか。しかし、ネットの口コミにも評判になっていない。怪しい。  田中はじっと店員の目を見た。店員の瞳は澄んでもないが、濁ってもいない。どっちだ。 「ほんとなのか?」 「ほんとです。ただ……」  ただ? やはりなにか裏があるのか。 「ドリンクは開発されて間がないから、どんな副作用が起こるか、わかってないらしいですよ。それでもいいなら売りますけど。ちなみに今月はキャンペーン期間中だから、買ってくれるなら、『おやすみノンタイム』6時間分を1本サービスしますけど。どうします?」  やる気のない売り込みだったが、キャンペーン期間中というフレーズが田中の心を揺さぶる。  田中はここで社長のパワハラと副作用のリスクを天秤にかける。  どちらも恐ろしいことに変わりはないが、さてどうしたものか。田中は迷った。そして出した答えはこうだ。 「買います。ドリンクを売ってください。ずっと眠たいのを我慢して働いていたんです。副作用だろうとなんだろうと構いません。ぜひお願いします! 売ってください!」  藁にもすがる思いで田中はぺこぺこと頭を下げた。  掃除用具を高く売りつけるつもりが、逆に売り込まれてしまった。だが、そんなことはどうでもよかった。とにかくいまは睡眠さえ取れればいい。
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