眠らない男・田中

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 眠らない男、田中はその日、大きな船舶を保有する海運会社に飛び込み営業をした。自社ブランドの掃除用具を売り込むのだ。 「ぜひうちの商品を」  カタログに載っている商品の中で、海運会社にもっとも需要が多いデッキブラシを売り込む。田中が勧める商品はその一本さえあれば一生使えるという触れ込みで販売するデッキブラシだ。価格は一本一万円に設定してあるが、じっさいはホームセンターに300円程度で売られている、ごくふつうのデッキブラシに塗装をしてツヤを出して高級感を出しただけのものだった。 「最近はうちも人手不足でね。新入社員が入ってもすぐにやめるんだ。だからデッキブラシもそんなにいらないんだよ」  価格交渉に入ることもなく、すげなく断られた。  やはりその日もろくに売れず、田中は計画書を徹夜で作る。  そもそも安い商品を高く売る商法だ。どうやれば売れるか。どうすれば客を納得させることができるか。必死に知恵を絞る。だが、どう考えてもいいアイデアが浮かばない。まったく浮かばないのであった。  そんな売れない日々がつづき、ついに会社は倒産した。田中は無職になったわけだが、むしろ気持ちは清々しかった。これでもう『おやすみノンタイム』なんか飲まなくていい。いくらでも普通に眠れる。  田中は久しぶりにアパートに帰ると布団に横になった。  ところが、眠れない。何度も寝返りを打つが、まったく眠気がこない。  その日から田中は眠れない夜を重ねた。それでもまるで眠気はこなかった。ついに睡眠薬にも手を出した。だがいくら強烈なやつを飲もうと、まったく眠れなかった。田中はすでに眠らなくてもいい体になっていたのだ。それこそが『おやすみノンタイム』の副作用だった。  ああ、もう一度眠りたい。いびきを掻き、夢を見て、ヨダレを垂らしたい。そんな些細な願いを抱きながら田中は職探しをつづけた。
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