眠らない男・田中

1/8
前へ
/8ページ
次へ
 眠い。すごく眠い。いま目をつぶれば、すぐに眠れるだろう。だけど眠ってはいけない。いまは仕事中だ。  田中は欠伸を噛み殺す。ここ最近、田中はほとんど寝ていない。 「昨日の報告書と今日の訪問計画書を出せ! さっさとしろ!」  午前8時の朝礼で、社長がいつものように田中たち営業マンを恫喝する。田中たちは恐る恐る手にした書類を差し出す。といっても営業マンは田中を入れてわずか2人。他の社員はおやすみ? やめた? わからない。  半年前、田中が入社したとき10人ほどいた社員はいつしか減って、ここ最近は2人しかいない。その1人とも田中はあまり話したことがない。互いにどっちが先にギブアップするか探っている感じだ。  社長は田中たちから書類をもぎ取ると自分の机に放った。どうせ読まないだろう。それでも、もしものことを考え、徹夜で書いた。だから田中は眠い。 「社訓いくぞ!」  ややシャウト気味に声を張り上げ、社長が田中たちを睨みつける。威圧的なその目から逃れるように田中は社長の尖った銀縁メガネのフレームに焦点を合わせる。  社長が背筋を伸ばした。いよいよ意味不明な社訓がはじまる。 「寝る間を惜しんで注文取れ! 寝る間があれば訪問しろ! 寝る間よりノルマ!」  狭い事務所のなかで社長が声を張り上げる。つづけて全員で繰り返す。全員といっても社長を入れて今日は3人しかいない。つまり全力で声を張る。 「行ってこいや!」  社長が鶴の一声を発すると、田中たちは猟犬さながらカタログを詰めたカバンを引っ提げ会社を飛び出す。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

11人が本棚に入れています
本棚に追加