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完璧人間とルールと水色の卵
「常識で考えたら分かるだろ!」
清々しい朝。オフィスに着くと、清々しさは課長の罵声に吹き飛ばされた。怒られているのは……完璧に仕事をこなす先輩、パーフェクトヒューマンこと長瀬さんだった。
怒られている理由は一目で分かった。なぜか長瀬さんは温かそうなグレーのパーカーを着ている。女性の服装はビジネスカジュアル以上と決まっているのに。
「これには事情があって」
「何の事情だ、言ってみろ」
「それは……」
長瀬さんは両手でお腹を押さえている。腹痛のために温かい格好をしたいのではないか。顔も少し青いような気がする。
「お前、仕事さえできればルールを破っても良いと思ってるんだろ? 高学歴は鼻持ちならんな」
ふん、と課長は鼻を鳴らした。
「課長、それは」
長瀬さんは一呼吸置いて、
「そのとおりだと思います」と言った。
怒りを通り越して驚く課長。抑揚なく一定の調子で続ける長瀬さん。
「私は内勤で服装が関係する仕事ではありません。むしろ無意味なルールを常識と言って押し付ける人ほど常識を建前に自分の仕事のできなさをごまかして——」
「長瀬さん!」
僕は堪らず先輩の名前を叫んで割り込む。しかし時すでに遅し。富士山が噴火したかのように、課長の怒りが爆発した。
「親子丼だ、残酷だね」
抑揚の無い声がした方を振り向くと、長瀬さんがトレイを持って立っていた。社員食堂の定番メニュー、豚の生姜焼きを載せて。
「豚の生姜焼きだって残酷ですよ」
「違うよ、親と子の死体をご飯の上で再会させて親子丼って呼んで喜ぶことが残酷だって言ってるの。サイコパスの発想だよ」
「サイコパスは長瀬さんの方です」とは言えず、黙っていた。長瀬さんは僕と向かい合う席に座った。ため息が千切りのレタスを揺らした。
「あんなに目くじら立てなくたって良いのに。鈴木くんもそう思うよね?」
あんなに、とは今朝の課長の大噴火を指している。
長瀬さんは優秀すぎるくらい優秀な先輩だ。正論しか言わない。ただ、風を読む力が欠けている。相手の気持ちを考えず、思ったことを言ってしまう。
それにしても、完璧人間の長瀬さんがパーカーを着ているなんて、違和感が服を着て歩いているみたいだ。いつも定時で帰り、プライベートが見えない人なのに。毛玉のついたパーカーには生活感が滲んでいる。
「なんでパーカー着てきたんですか。昨日までスーツでしたよね?」
「それなんだけど」
長瀬さんはパーカーの腹部についている大きなポケットに手を入れた。
「見てよ」
ポケットから出てきたのは、水色の卵。鶏のよりも小さく、鶉のよりは大きい。余程よく見せたいのか、僕の目に近づけてくる。
「ゆで卵ですか?」
「やめて!」
長瀬さんは水色の卵を両手で覆い、素早く胸に引き寄せて僕から遠ざけた。残酷、と呟く。
「昨日拾ったの、歩道の植え込みに落ちてたんだよね。中で動いてる気配もあるし、あとちょっとで生まれるのかも」
意外だ。長瀬さんが自分以外の生き物に関心を持つとは。
「鳥の卵ですかね?」
「なんだろうね、蛇かもしれないよ。とにかく温めたら生まれてくると思って」
長瀬さんはパーカーのポケットを摘んだ。
「もしかして、ポケットで孵化させようとしてます?」
そう、と長瀬さんは言った。良い天気ですね、そうですね、と同じくらい自然な言い方の「そう」だった。
「普通は孵卵器に入れて温めるんですよ」
「孵卵器なんて持ってないもん。でもさ、ポケットで行ける気がするんだよね。カンガルーと同じだよ」
そうですか、そうなのよ、でラリーが終わる。長瀬さんはしばしの沈黙を気にした様子もなく、口を開いた。
「鈴木くん、何か歌って」
「は?」
「音楽を聴かせたり、話しかけたりすると良いと思うんだよね」
「……植物の育て方と間違えてませんか?」
「植物に良いことは動物にも良いに決まってるよ」
「そうなのかな……」
「何でも良いから歌ってみて」
歌は大の苦手なのだけれど。しかし長瀬さんは当然のように言うから、できないと言えば僕の方が変人みたいになる。
どうやって声を出せば歌になるんだっけ。大学の卒業式の校歌斉唱でも口パクを貫いた僕の声は、案の定、ふらついていた。
「み〜や〜こ〜の〜せ〜い〜ほ〜く」
「……意外な弱点だね」
長瀬さんはケラケラ笑い、人差し指で卵の表面を撫でる。
「長瀬さんが歌えって言うから歌ったんですけど」
「個性的って感じかな」
「傷つきました。慰謝料を請求します」
「私も歌うから許してよ」
小さく息を吸い込み、裏声で、
「はーるが来ーた、はーるが来ーた」
ずるい。歌もできるのかよ。
「……もうすぐ夏なんですけど」
恥ずかしいのを隠すために思わず放ってしまった言葉。鈴木くんってどうでも良いことに対してだけ細かいよね、と言った長瀬さんの表情は、よく分からなかった。
長瀬さんのパーカー出勤は数日に渡って続いている。課長の怒号も日増しに鋭くなっていく。戦場かと思うほど職場は緊張している。
長瀬さんは、卵のことを課長には内緒にしている。生まれなかった場合、酷く馬鹿にされると分かっているからだ。二人の間の溝を、卵が深くすることはあっても、埋めることはないだろう。
僕からすれば、確かにオフィスにパーカーは違和感があるが、仕事に支障は無く問題ではないように思う。現に長瀬さんは今日も定時の前に仕事を終えたらしく、十七時になると帰り支度を始めた。
「お先に失礼します。お疲れ様でした」
「長瀬」
しかし、今日は課長が呼び止めた。
「プレゼンの資料はできたのか?」
「来週末までに作るように、とのご指示でしたが……」
「本番が明日に変わったんだ。知らなかったのか?」
無関係な僕まで驚く。仕事を中断して課長を仰ぎ見る。
「明日の朝には完成した資料が欲しい」
確信犯。日時の変更なんて一言も言われていない。明らかに長瀬さんをいたぶろうとしている。
さあ、パーフェクトヒューマン。正論で論破するんだ。
「かしこまりました。明日の朝一で完成した資料をお渡しします」
嘘だろう。こんなに聞き分けが良い長瀬さんは見たことがない。課長よりも僕の方が戸惑っているかもしれない。課長はお先にとか言って、さっさといなくなってしまった。
「不思議だよね」
長瀬さんがぽつんと呟いた。
「服装で評価するのなんて人間だけだよ、生き物はみんな裸で生まれてくるのに」
「……」
「つまらないルールに従う意味ってあるのかな」
抑揚は無く、独り言のような言い方だった。でも、僕の返事を求めているような気もした。
「あくまで僕はこう思うってだけなんですけど」
予防線を張ってから切り出す。
「従うんじゃなくて、付き合ってあげてる、って思えば良いんじゃないですかね?」
長瀬さんが振り向き、目が合う。
「どういうこと?」
「組織のつまらないルールは、僕らみたいな凡人でも大きな失敗をしないように設けられてるんです。優秀な人には邪魔でしょうけど、付き合っていただかないと。凡人までルールを破るようになって破綻しますよ」
「服装もそうなの?」
「スーツまたはビジカジと決めておけば、パジャマやジャージで出勤することは無いですよね。どんな馬鹿でも。まあ、ギリギリな理屈ですけど。つまらないルールの存在意義はどれも同じで、凡人のためなんです」
長瀬さんは小声でそっか、と言った。
「付き合ってあげる、ね」
「卵が孵ったら課長に謝りませんか? 形だけで良いです。これもつまらないルールなんで。僕も一緒に行きますから」
「何で私が謝らなきゃいけないの」と来ると思ったが、「そうだね」と素直な返事だった。
「じゃあ、プレゼンの資料を早く終わらせましょう。僕も手伝うんで」
「もう終わってるよ」
「え?」
自分の声とは信じられないほど情けない声が出た。
「もう完成してるの。提出してないだけ。遅れたら怒られるけど、早くても怒られそうだから、止めてたんだよね。あとは明日の朝、印刷して渡すだけだよ」
そういうところが課長の神経を逆撫でするのだ。
「あと三十分くらいしたら上がるね。今帰ると、駅で課長に会っちゃいそうだし」
パーカー越しに卵を撫でながら、付き合ってあげる、と独り言を何度か繰り返した。お気に召したようだ。僕の残業を手伝うこともなく、長瀬さんは本当に三十分後に帰った。
「うっ、うまれるっ!」
これは、残業を終えてオフィスを出たときにかかってきた、長瀬さんからの電話の第一声。自分が子どもを産むかのように切羽詰まっていた。早口で告げられた住所に向かい、今、長瀬さんの自宅に着いたところだ。
「早く早く! もう殻を割り始めてるよ!」
ローテーブルの上にタオルが敷かれ、水色の卵が置かれている。僕たちはソファではなくカーペットに腰を下ろし、卵に顔を近づける。卵には小さな穴ができて、黄色いくちばしが覗いている。やはり鳥か。
「頑張れ、たまご太郎!」
「たまご太郎?」
「桃から生まれたら桃太郎なんでしょ。卵から生まれたらたまご太郎になるんだよ」
相手にしている余裕は無い。雛は少しずつ、着実に殻を割っていく。頑張れ、あと少し、と声をかけつつ見守った。
やがて殻から全身が出ると、僕は涙を一筋こぼしてしまった。長瀬さんは僕の手を掴んで上下にぶんぶん振っている。今までに見たことのない表情をしている。口角を持ち上げているのに眉は八の字で、なんて器用なんだと思った。
殻と同じ水色の羽毛に覆われた雛が、タオルを踏みしめて立とうとしている。ツイッターのアイコンみたいな鳥だ。ピーと鳴く度にお腹が大きく膨らんでは縮む。
初めはピーピーと鳥の言葉で鳴いていたのだが、次第に音の輪郭がくっきりと文字になっていく。
「ミーヤー」
「喋ってるみたいだね」
「ミーヤーコーノー」
長瀬さんと顔を見合わせる。
「ミーヤーコーノーセーイーホーク」
「わあ、歌った!」
「生まれたばかりなのに…?」
卵のときに聴かせた僕の下手な歌を、雛鳥は覚えていた。
「天才だ。たまご太郎は付き合ってあげる側だね」
「人間のルールですけどね」
「インコかな? オウムかな?」
「カチョウ、バカ、マヌケ、ノロマ」
「何ですか今の悪口。もしかして——」
卵に愚痴ったんじゃないですか、と言いかけて飲み込んだ。長瀬さんの顔が色を失い、瞳が小刻みに震え始めたからだ。
「長瀬さん?」
「鈴木くん!」
我に帰った長瀬さんは慌てて立ち上がり、僕の腕を引っ張る。
「帰って! 今すぐ帰って!」
「悪口のことは誰にも言わないので大丈夫ですよ」
「いいから! とにかく帰って!」
顔を歪ませ、長瀬さんは僕を家から追い出そうとする。会社での冷静な姿の面影はない。
「スズキクン、スズキクン」
テーブルから僕を呼ぶ声がした。なぜか、たまご太郎が僕を呼んでいる。
「イガイト、ウタヘタ、カワイイ」
何が起きているのか分からない。長瀬さんは目を大きく開いてたまご太郎を見つめ、固まっている。
「ヤサシイ、カワイイ、スズキクン、ダイスキ」
長瀬さんの顔がどんどん赤くなっていく。
「普通、本人の前では言わないでしょ!」
「それは人間のルールですね」
「うわあああああああ!」
大騒ぎする長瀬さん。春が来たと呑気に歌うたまご太郎。僕はふたりを交互に見ていた。
「モウスグ、ナツナンデスケド」
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