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第一部
初めて明晰夢を見た時のことは忘れられない。私はあの時、橋桁の上に座っていた。恐怖は感じない。ただ、虚脱だけが私の脳内を支配していた。下には冷淡な波で描かれた稜線を白い水しぶきが駆けるのが見える。心臓は熱を持っていて鼓動の度に痛みが襲ってきた。堪らなく泣きたくなってくるのはどうしてだろう、不思議だった。あの時の想いはよく分からない。驚いたのはそのあとに誰かの名前を叫んだことだ。その名前は耳に馴染んでいた。懐かしい響きだった。もう一度呼んでみたくなる声だった。でも誰の名前を呼んだのかは思い出せなかった。そこに誰が居たのか、思い出せない。憶えているはずなのに、わからない。どうして思い出せないの?私はわからない。叫んだと同じくらいに涙が溢れて止まらなくなった。誰かに縋りついて泣きたかった。抱き締めて貰いたかった、懐かしいあの匂いに包まれていたかった。だんだんと記憶がぼやけてくる。溢れる涙は私の頬を伝って暗闇に消えて見えなくなった。どうして?私は知らない。泣いた時に涙が洗い流してしまったのかな。けれども私は忘れたくはなかった。この想いが、あの逢いたい人に繋がっていると信じてるから。
あのあとどうしたんだっけ。気がついたら私は教室にいた。瞼からは薄い糸のような一点の雫が流れ落ちていく。
どこかの喫茶店に居た。空は黒、或いは鼠色で覆い隠されていた。人はめっぽう少なく、ともすれば誰も居ないといっても過言では無かった。客は皆、話しかけられることを拒絶しているようにみえた。避けているようにみえた。その端に、ぼんやりとした電球の光の下で男が一心不乱に万年筆を執っていた。電灯がスポットライトになって、男とその他を遮断した。万年筆には金色のラインがはいっている。男は小さな丸机に覆いかぶさるようにして書き続けていた。机からは原稿用紙が零れ落ちようとしていた。男は気にも留めない。翼を怪我した鷹が、飛翔しようとして我武者羅にもがいているようだった。顔はみえなかったが、懐かしい匂いがした。あの人の匂い。インクのような匂いがした。男の傍に駆け寄る。小豆鼠の椅子に座る彼の背は酷く痩せこけていた。その背に触れる。最初はどうして自分が彼を撫でようとしているのかわからなかった。だが、ひとりぼっちの小さな背中が錫箔の涙を流して泣くのを必死に堪えてか、言葉にならない言葉を切なそうに唸るのを黙ってみては居られなかったのだ。私はぎこちなく、それでも優しく撫で続けた。彼を救けたい。でも、私に出来ることは、彼に寄り添うことしかなかった。何故か、彼をみると、涙が止まらなくなる。彼の世界はこの電灯の中だけのように想われた。だから、彼の隣に居たかった。彼は独りだった。全てが彼に冷たくあたっている。私は彼の背中に抱きついた。大丈夫、私がいるから。私の頬を涙が流れ落ちた。
「君が傍にいるようだ、、僕の為に泣いてくれてる、、のか?」
男は言った。男には私のことがみえていないようだった。男の手から万年筆が溢れ堕ちた。
「完成だ、君にやっと逢えるよ」
折れた金翼から流れたどす黒い血が床に溜まっていた。
「ここもまた夜だ。やっぱり私、夜好きなのかなあ」
夜の島、街灯はぽつねんぽつねんと頼りなく光を放っていた。オリーブをひとしきり摘んでから、私はギリシャ風車の下に広がる丑三つの月光を浴びた芝生の上に寝転がったり走り回ったりしてみる。空を歩くような感覚だ。
「あははは、楽しーな」
夢の羊の群れは愛らしく思えるほど短足であった。その愛くるしく湾曲した角はまだ成長途上で、小さく、その色も若々しい。羊の布団にくるまって満月をじっと見た。さすがは快眠の象徴だ、夢の中でも夢を見られる。そのムートンからは綿あめのような芳香。月光は穏やかな光をたたえて私を見守った。さながらどこかの老人のような眼差しだ。月の傍には、煙草の煙みたくたなびく雲が今まさに隠さんと迫っていた。
「夢だったら何でも出来ちゃうな」
私は出鱈目に呪文を唱えた、さっき芝生の上に落ちていたオリーブの枝を拾って。ちょうどラディオは午後十時のおやすみのジェイムス・テイラーを流していた。途端一迅の風が吹いたかと思うと虚空から絵に書いたような魔女の箒が飛んで来てひれ伏した。私は元気だね、と箒に呼びかけた。箒はそれに応じるように毛並みをザワザワさせた。柴犬が可愛いのは周知の事実だが、あれは尻尾と笑顔を振りまいている時、つまりは今の箒みたいな時が一番愛くるしいのだ。前に何処かであった柴犬もこんな感じで懐いてくれたなあ。
「行こう!今日は綺麗な満月だよ」
箒に跨った私を羊達が見送る。餞別とばかりに鳴く者もあった。
箒は案外音を立てずに呆気なく宙に浮いた。だが、音を立てていないだけで、芝生が騒騒しい所を見るに、凄まじい風が吹いているのだろう。夢とは不思議なもののようで見たことのある光景、聞いたことのある音で構成されて居るらしい。つまりは既成事実と己が思念の想起との複合体。だから箒が人を乗せて空を飛ぶ時の音は勿論聞いたことがないので、聞こえ無かったのだろう。これは所詮妄想の産物に過ぎないのだ。刹那、箒は速度をつけて滑空した。えっ、速い。振り落とされちゃいそうだ。その箒は、少女に自分自身の良い所を見せんが為に奮闘する少年のようだ。
「ちょっ、箒さん?」
暴れ狂う乱気流の中で必死に箒に呼びかけるが、箒は全く聞く耳を持たない。白きフレアスカートはばたばたとたなびき、空に飛行機雲を描かんとしていた。風に吹かれては本来の意味を忘れてこの妄想を楽しむ。乙女にとってはたまったものじゃない。私は、垣間見える天衣をスカートで抑えつけて隠そうとした。遂には体感速度は音速を超越した。私は堪らず、不審な回転を始める箒を押さえつけるように持つことにしたが、箒はそんなのお構い無しに雲を突っ切っていく。風は互が侃侃諤諤の議論を交わしているかのように大声で叫び合っていた。
「きゃっ、」
刹那、その声に驚いてか、私は箒から手を離して真っ逆さまに転落した。分厚い雲の層を何度も貫いていく。下をみれば、それは夜空のように果てしない闇を開ける海原が広がっていた。夢っていうのは一ヶ月おきに何かから滑落する妄想を見る。反動で身体が震えるんだよな、でもあれは身長が伸びた証なんだってさ。私の身長も1センチくらい伸びてるかも、何て変に冷静に考えながら落ちる私には、笑うしかない。いやこれも夢だからこその冷静さであるかもしれなかった。意識が曖昧になっていき、やがて重力の盲目の信者になっていく。暗転。
途端、ガダガダと音がして、私は目覚めた。見れば彼女の机が前にあった。教科書は地面に散乱し、涎は僅かにであるが机上に糸を引いていた。根拠の無い安心感、霞む黒板。
「あ、やっと起きた、」
はっ、と後ろを見やると、そこには呆れたと言わんばかりに立っている箒みたいに背の高い男がいた。クラスの忘れ去られた細長い毛先が躍動的な箒が脳内に蘇った。
「えっ、私ずっと寝てたの?」
私は寝ぼけ眼を擦りながら彼に聞く。
「びっくりしたよ、ずっと動かないからさ、呼びかけても返事しないし。このまま学校に泊まるんじゃないかって思ったよ」
彼は端々に皮肉を込めながら言った。でもなんだか浮ついた声。彼は嬉しそうな表情だった。とりあえず私は笑ってみた。笑って誤魔化す魂胆だ。静かでゆったりとした彼の声に心が和らぐ。家にいるような安心感。彼といつも一緒に居るからだろう。と同時にあれ、と私は若干の違和感の正体に気づいた。
「じゃあ桑野くんずっと私が起きるのを待ってたん?」
突然の質問に慌ててか彼は顔を淡い桃色に染め上げて
「お、幼なじみだからな」
とぎこちなく返答した。どれぐらい待たせちゃったんだろう。顔もちょっと赤いし、怒っているのかも知れない。いや、照れてる?どうして?私はとにかく待ってくれていた彼に言った。
「ごめん、」
「謝る必要は無いよ、さ、帰ろ」
彼、桑野蒼は未だ頬の紅葉を私に悟られまいといった風に私に背を向けて言った。彼は何時になく緊張していた。だんだんと、どうして彼がここまで照れているのか、わかった気がした。ずっと一緒にいるのに、照れて背を向けた彼の顔を思うと、こっちまで恥ずかしくなる。
「うん、早く帰ろー」
さっき私が寝ていた時に彼が買ってきてくれた缶ジュースは汗をだらだらと流していた。
「待っててくれてありがと」
「そりゃ、、いつまでも待つよ、、幼なじみだから」
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