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ここ最近、僕の幼なじみの栗林梓の様子が少しおかしい。信じ難いことであった。優等生を具現化した様な彼女が。誰よりも賢く、誰よりもお淑やかな彼女が。最近、授業中に居眠りをしているのである。
瀬戸の風よ 聴かせよ セレナーデを 穏やかなる愛の挨拶を
あの時の彼女は可愛かった。瞼が完全に閉じられ、たまに頷きながら気持ち良さげに寝ていた。聡明そうな額に微笑をたたえて、髪は柔らかな風に身を任せていた。涼風が誘う彼女の静かな微笑に僕は恍惚とした表情のまま、息を呑んだ。彼女の可愛さに思考の全てが魅入られたように静止した。彼女がたまらなく愛おしい。どんな叙情的な表現も彼女にはきっと敵わない。彼女はほんの小さな寝息をたてて眠っていた。傍からみればそれは本を読んでいるような姿勢だった。彼女は居眠りに慣れていないらしく、時折目を少し開けて、それでも睡魔の圧に負けて目を閉じる、を繰り返していた。有象無象の読経が安眠を妨害しているからだろう。教師は黙ることを知った方が良い。彼女を喧騒の教室から遮断してゆっくり寝かせてあげたい。彼女の白くて細い腕の力が抜けて、シャーペンがパタリとノートに倒れ込んだ。彼女の制服の袖口が風でさざ波のように揺れた。彼女の天使の微笑に魅入られるうちに、教師の声も気にならなくなった。ノートに書き写した文章も、ふざけた文字の羅列になって空に舞った。いつしかノートは罫線だけが引かれている。遂にはクラスメイトまで透明になって、何も聞こえない。ただ僕と彼女だけが教室にいた。
彼女は首が疲れたのか、ノートを枕にして寝始めた。寝顔が僕をみる。僕の頬は林檎のように真っ赤になっていたと思うが、それくらい照れて、鉛筆も思うように握れなかった。自習する気にはなれなかった。彼女は幸せそうな顔をしていた。寝るのが好きだって、よく言ってたっけ。ずっと彼女の寝顔をみていたい。だがそれと同じくらい、僕は彼女が心配でならなかったのを思い出し、幻想から引き戻す。彼女は疲れた顔を最近みせるようになった。彼女が授業中に寝ることなんて今までになかった。見当違いな、杞憂に過ぎないかもしれない。けれど彼女が居眠りをするのには何か理由がある筈だ。彼女はここ最近居眠りが続いていた。思い返せば彼女は何か悩みを隠そうとしているところがあった。一緒に帰った、確か三日前の帰り道もそうだった。なんだか彼女はいつもの彼女とは違う、曇った、ぎこちない表情していた。やっぱり、彼女は疲れた様子だった。
「栗林、最近疲れてる?」
彼女は一瞬驚いて、小突かれたようにどきりとした。まるで胡瓜をみた猫のようだった。僕は慌てて口を噤んだ。暫しの沈黙の後、気を悪くしたかもしれない、と思って咄嗟に謝ろうとした僕を遮ってその時彼女が、
「実は、、」
と言った。すぐに彼女は言いかけた言葉を引っ込めて、気にしないで、大丈夫、と笑っていたが、やはり彼女は悩み事があった気がしてならない。だが、過度な詮索は暴力にも繋がると考えた僕はそう、と受け流すことにした。彼女が僕に相談しようとしてくれたのにもかかわらず、なんだか怖くなってしまったのもあった。だが、そんな彼女を思う度になんとかして僕は彼女の悩み事を無くしてあげたいと思うようになった。今度こそ、彼女を救けてあげたい。そう思うようになった。
僕は昔から彼女の優しさに救けられてきた。彼女と僕はまだ身長が三十センチ定規二つよりも背が小さい時から一緒だった。同じブランコを使い、芝生に寝転がって共に昼寝をし、あまつさえ共に家出なる逃避行をしたこともあった。僕は彼女が好きだった。誰にでも優しい彼女に憧憬を抱いていた。いつか彼女みたいに、誰にでも手を差し伸べられるような人になりたいと思った。これまで優しくしてくれた彼女に恩返しがしたかった。
彼女が笑顔でいること。これが僕にとっての金科玉条だった。けれども僕は泣き虫で頼りにならなかったろくでもない奴だったのだ。一つのことに一憂し、その度に彼女に慰めてもらっていた。何度も僕の気持ちを打ち明けた。彼女はいつも優しく頷いて聞いてくれていた。僕は嬉しかった。彼女と居るだけで僕という存在が肯定された気がした。彼女がどんどん好きになっていった。けれども同時に僕には好きになる資格はないと思った。僕にはそれほどの価値はないからだ。彼女に不甲斐ない僕は似合わない。不釣り合いだ。月とすっぽんだ。彼女を好きになることさえ、一種の僭称であるかのように思えた。そのことで何度も彼女と喧嘩になった。彼女は僕のことを褒めてくれた。いつも寄り添ってくれた。その優しさが僕の胸を刺した。僕達の才の懸隔はもう埋まらないとさえ思えたのだ。申し訳なさ、ただ申し訳なさが募る。徐々に逢う機会は減っていった。結局は自らの問題であるのに、僕は彼女を避けたのである。登下校も一緒にしなくなった。その内に彼女は才色兼備の誰もが羨むマドンナに、僕は陰翳を這う本の虫となった。無意識の拒絶。僕は彼女の優しさがどんなに有難いものかを知るのに、随分と時間がかかってしまった。彼女とはもう話せなくなった。彼女とは違う中学校に入った。都会の中学校だった。それでも、まだ遅くない。そう想えたのは、なぜだろう。今度こそ僕が彼女を救ける人になる。まだ頼りないかもしれないけれど、僕が出来ることは精一杯やるんだ。昔日の彼女がしてくれたように。在る感情は果てしない彼女への恋心であった。彼女と高校に上がって、クラスが同じだとわかった日、僕は彼女に声を掛けた。必死に追いついたんだ。高校の志望理由は彼女も受けることを前提にしたからなんて、人には言えないが。賭けだった。彼女がこの高校を受験するのか。でも、間違いじゃなかった。今度こそ、彼女を救けたい。彼女の力になりたい。僕は半ば無意識に彼女に声を掛けた。ぎこちなく、わざとそっけなく聞こえるような声だった。頬はさながらフィラメント電球のように熱を帯びていたと思う。
「や。久しぶり、あの、よ、よ、用事なかったら一緒に帰らない?」
緊張すると吃るのが僕の癖だった。回顧するのも恥づかしい反面、大胆にも行動にでた僕に僕からの囁かな拍手は止むことを知らない。彼女は、はじめ桑野くん!?なんて驚いていたが、すぐに聡明そうな目を向けて、しばしの沈黙。変わっていなかった。利発で愛おしく、吸い込まれるような目をしていた。すべてを見透かされた感じも相まって明らかに僕の頬は紅潮していた。どろどろに溶けてしまいそうだった。口角が吊り上げられそうになるのを必死で抑えていると、耐えられない、という風に彼女の顔が綻びた。
「えへへ、なんかあやしーね、桑野くん、逢わない内に大人になったのかな?」
彼女の潤んだ瞳がいじらしく光った。彼女はいたずらっ子の顔になって、小さな花がぽろぽろ咲くように笑った。
「え、あ、ごめん、何か用事あった?」
「ごめん言わない!幼なじみでしょ。それに誰が断ると言いましたか?桑野くん!一緒に帰ろー」
久しぶり一緒に帰った日はあまり覚えていない。恍惚が俺の海馬を操ったからだろうか。だが、一つ覚えているとすれば彼女の笑顔を久しぶりに見れた事だろうか。それだけでも、嬉しかった。
「もう、離れっこなしだからね」
丁度一年半前の記憶である。僕はそれから、彼女との再親交を始めた。僕は変わるんだ。彼女が頼ってくれるような人になるんだ。そう誓った。優しい人というのは人をも変えうるのだろうと、彼女を見ると想う。彼女が唯一、僕のことを理解してくれる存在だった。僕は友達はあまり出来なかった。内向的な性格もあったが、何より協調して生まれる友情なんてものに価値なんてない、と思っていたからだ。だが、彼女は違った。彼女は、彼女だけが僕に手を差し伸べてくれる存在だった。
「帰りに、、公園、よらないか?」
僕は先程の彼女が頭に残ってか、彼女への想いを心に押し込めるので精一杯だったのか、ぎこちなく、そっけなく誘った。ちょうど斜陽が教室の窓へ甘橙の腕を伸ばしていた。校内からは疲労を労う五時丁度の鐘が聞こえてくる。
「う、うん」
彼女は恥づかしそうに、申し訳無さそうに肩をすぼめながらうなづいた。歩幅の小さい彼女にあわせてゆっくり歩く我が白い靴を見る。彼女はパタリパタリと優しい音を奏でていた。僕は斜陽を浴びてか紅潮するのをシナプスで感じた。彼女とたわいのない話をしたかったが、今は出来そうに無い。彼女は僕に謝ったが、彼女のためならいつまでも待てた、。だから気にしないで。なんて気色悪いこと言えない。
階段を降りて下駄箱が見えてくると体操服の喧騒が響く。僕はようやく我を引き寄せ顔色は穏やかさを取り戻した。上靴を古めかしい下駄箱に直して、重い参考書を二三押し込めて扉を閉める。不格好に口の少し開いた制定カバンを持ち上げる。つい最近左側のチャックが壊れて以来、右のチャックで何とか閉めようとするが、あと一歩のところでつっかえて閉まらない。
「暑いねー」
彼女は眩しそうに窓に映る沈む夕陽を眺めた。二人の影が伸びて、彼女の足がいっそう細くみえた。彼女のスラリとした背中はどこか悲しさを纏っていた。
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