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蘇芳色の陽光が名残り惜しそうに一帯を茜に染めあげて、吹く風も凪いでいた。彼女はやや眠そうに目を擦っていた。彼女は未だ真葛に抱かれて居る様だ。彼女と僕を避けるようにして、帰ろう、早う帰ろうと鳴く自転車の雁行が通り過ぎる。
「ごめん、暑いよね、公園はまた今度でも、いい、から」
僕は交差点で唐突に口を開いた。多少の申し訳なさを含む言質だった。先刻は彼女の羞恥心を掻き立てる行為をしてしまった。彼女のプライベートな空間に機関銃を掃射した気分だ。衆人環視から彼女を護ったとも言えようが、彼女の前ではそれは単なる言い訳に過ぎないように思われた。自分の寝姿をみられることがどれほど恥ずかしいか、ちゃんと僕はわかっていたのか。だがそれなら尚更、彼女のことが放って置けなくなった。寝る度に誰かに謝るなんて辛すぎるじゃないか。誰にもみられないところで、彼女にはすっきり寝て貰いたかった。悩みも何もかも忘れて、眠って貰いたかった。しかし困った。どうこの気持ちを彼女に伝えれば、彼女は僕を頼ってくれるだろうか。口下手な僕だ、下手に言って彼女を傷つけたらどうする?
「ううん、良いよ、私も、その、、ね」
校舎の周りに居並ぶ樹木達に蝉が止まっていた。蜩であった。翠玉の側面を輝かせ、一心不乱に鳴いていた。彼女は木々を見上げてから再び視線を元に戻した。僕は下の蜩だか蟟だかの死骸に暫く目をやってから思索に戻った。横顔に沿うように垂れていた黒く妖艶な髪をその白く細い腕が耳にかけてから顕になった凛とした脆弱な美に僕はまたも固唾を呑んだ。昔日を思い出す。
信号が青になり、反対側にいた黄色い制帽を被った子供達がわらわらと歩いて僕、続いて梓とすれ違った。公園からの帰路だろう、子供達の数の多さに金曜日の余暇を感じる。明日は土曜日だ。彼女は、額の汗を白のハンカチで拭い、暑さのためか溜息を洩らした。僕は安易に公園を舞台に設定したことにやや後悔したが、いざ公園前の並木を通る頃には暑さも大分収まった様に思えた。
「それにしても久しぶりだね、桑野くんが、、誘ってくれるの」
「昔を思い出してさ、だいぶ昔の」
僕は昔の話を伝っていっそ、開き直って彼女への想いを暴露しようか悩みながら首をもたげた。僕達の空には煩雑な風景画家が太めの筆でこれまた乱雑に仕上げたような雲が寝そべっていた。
「夏になるといつも思い出すんだ、」
彼女ははたりと公園のベンチに座って、僕の話を聞いてくれた。手許には白の、隅に赤い糸で筆記体のAが書かれたハンカチがあった。昔日も彼女は黒く綺麗な瞳に僕を写して、柔らかい微笑を向けていたと回顧する。
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