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瀬戸の風に吹かれた或る街は秘色色の海とバスキンロビンスの抹茶アイスクリームの様な幼げな山を持っていた。それは、四国の背骨たる大幹道と叡智の城下に刻まれた繁栄の歴史に裏打ちされた峻峭厳格な面持ちに残る一点のあどけなさの如くに思われた。抹茶アイスクリームの傾斜に拘泥して建てられた一軒家にある夫婦が移り住んだのは、そんなこの地に惹かれた彼らの間に新たな生の伊吹が聴こえる一年前であったと言う。産まれたのは男の子だった。父に似た気弱で優しいその子供は忙しい母に代わって育児に励む父の腕と夕波小波の潮風に抱かれて健やかに成長した。
父さんとはよく遊んだ。専ら山の麓にある都市公園でブランコを漕ぐか、山の中腹の神社の石段をしゃがんで数えるとかであったが。どちらも閑寂としていた。父さんは静かなところが好きだったのである。毎日坂を登ったり降りたりするのはまだ片手の指を折って数えられる程度の僕にとっては苦労が絶えないように見えて、その実は全てが新鮮な冒険だったから、楽しいと感じても、辛いとは感じなかった。その時の無邪気な僕の顔に父さんは溶けたような顔をしていたと聞いた。
道を挟んだ向かいの家にも同じ歳の女の子が居た。彼女はお淑やかな娘であったが、僕、桑野蒼と遊ぶ時は活発で明るい一面を見せてくれた。
「あおいくん、あおいくん」
とパタパタ手を振る彼女の健気さに僕は一人っ子では感じ得ない、守ってやりたいという兄のような感情を持った。二人だけの秘密を共有したいという不思議な想いもあった。だが正直な幼き僕に隠したい想いは無かったし、ましてや彼女に抱く想いが恋心だと気付く程初心でも無い。だがこの想い自体は一般の幼子が持っていたようで、彼女も、栗林梓も、僕の手を引っ張っては二人だけの場所に移動し、耳元に何事かを囁くのだった。囁いた後に彼女が耐えきれずに少し笑った時、僕は彼女の秘密を知ってしまったという高揚感とむずがゆい快感におそわれて、思わず笑ってしまうのだった。その多くの「秘密」は突発的な危機の共有であった。例えば
「れいぞうこのアイスだまってたべちゃった」
だとか
「にわの花とってきちゃった」
だとかのたわいの無いものだった。
小学校の入学を控えた春先、父が倒れた。幼子の僕は事の重大さに気づけなかったが、後々深慮すれば、両親の配慮によるものであるとわかった。母の心労はどれ程のものだったろう、父の惨苦はどれ程のものだったろう、僕は知る由もなかった。今思えば悔やまれる。部屋で寝ていた父。遊ぼうとせがんだけれど、ごめんなあと申し訳なさそうに謝る父の顔が忘れられない。幼き僕は父がどこか遠いところに行ってしまったようで、そんな父が嫌で、拗ねたようなそっけない態度ばかりとっていた。
春の陽光で草木ははちきれんばかりの明るく瑞々しい姿に若返り、新たな命が謳歌する。その声に魅せられてか普段は寝てばかりいる父がむくりと起きてきた。家の中には僕と父しか居なかった。通りで、静寂で涼しい訳だ。父は細い腕で大きく伸びをしてから、冷蔵庫を漁った。僕はソファでミヒャエル・エンデの「はてしない物語」の世界をかきわけかきわけ読み進めていた。父が倒れた折、父の提言で僕は書斎を使わせてもらえるようになった。書斎にあった父の椅子は取り払われ、新品の僕の椅子が場違いのように置かれた。父さんの椅子のままでいいよ。と僕は言ったが、父は蒼が成長すればまた出してくればいい。と言って、ついにそれを物置にしまい込んだ。
「蒼の好きにしていいよ」
そう父は言ったので、早速僕は旺盛な好奇心に後押しされて書斎に聳え立つ本棚の森から、妙に色褪せた、この冒険譚を手に入れたのだった。まるでそれは古文書のようだった。案の定、それは死海文書だった。ヴォイニッチ手稿であった。それほどの謎がそこには秘められていた。すかさず僕はA6判から繰り広げられる魔法の世界に誘われたのである。
「蒼、居るのかー?」
コップに冷水を注ぎながら父が言った。僕は本に没頭しており、煩雑だとでも言いたげに
「居ないよー」
と呟いた。いや、本に没頭しているというのは建前で実際は父へのささやかな反抗があったのかも知れない。いやもっと単純に、、。父の顔はソファの嶮峻に阻まれて見えなかった。ただ、父の喉仏が冷水を平らげる音が聞こえた、間もなくことりとコップが置かれた音が続く。この後父さんはどんな行動をするのだろう、見つかったら怒るかな、でも寂しがりやな父さんだ、泣いちゃうかも知れない。不安や興奮で本なんて読めずに僕はソファからだっ、と走りだして寝室のベッドに突っ伏した。暫くして父のゆっくり歩く音が聞こえた。
「蒼、ここかー?」
何処かの部屋の扉が開いた。僕は唐突なスリリングに悶えながら布団の下に潜りこんだ。はじめ冷たかった布団は僕の吐息と体温ですぐさま暖かくなった。灰色の闇に父さんの匂いがした。洗剤の奥に父さんが確かに居た。
「ここだな!」
気づけば父は寝室に居た。刹那、父が僕を抱き上げる。
「きゃあー」
すかさず僕は乙女に似た悲鳴と幾許かの歓声が混在した声をあげながら陸に打ち上げられた鯉みたく身体をじたばた動かした。父さんは磊落な笑い声を発した。乾いた笑い声だった。父さんが笑っているところを久しぶりに見た。僕は想定外の反応に若干の安堵と喜びにまたも悶えながら父さんに身を任せた。父さんはゆっくり階段を降りて一階の庭に向かった。確かに父さんは前に増して痩せていたが、衰えは感じなかった。感じさせぬほど腕は僕を抱きとめていた。
「やっぱり軽いなあ、蒼は、もっと食べなきゃ駄目だよ」
「軽くていいじゃん」
僕はついさっきの感情を思い出してまた拗ねたように言った。父はまた笑って、母さんも同じ事言ってたよなんて言いながら虚空に過去を描いていた。
庭には一面雛菊が咲いていた。父がよく愛でていたが、この年も綺麗に咲いていた。父は肩に僕を乗せて庭先に腰掛けた。
「良い天気だな」
寡黙気味な父がぎこちなく言った。僕はただ、うんと答えた。春日和と乙女の風は床に二人の影を落とした。
「蒼は遊びに行かないのか、こんなに晴れてるのに」
「お山に住んでるのあおいとあずさちゃんしかいないもん。あとはみーんなおじいちゃんばっかだよ。」
「梓ちゃん、、栗林さんとこだね、遊ばないのか」
「本読んでるからいー」
父は咳を少ししてから溜息をついた。本心では僕は父さんと遊びたかったのだ。だが、そんな叶わぬ希求を、父さんは直感でわかったようだった。親子というものは不思議だ、息子の想っていることは手に取るようにわかってしまうらしい。両親にだけは、僕の想いはいつでもおみとおしだった。
「ごめんな」
父さんはボソリと、半ば独り言のように呟いた。勿論僕が聞こえない筈がない。だが敢えて聞こえないふりをした。謝られるのが何よりも苦しいからだ。だから、僕も独り言のように言った。
「謝らんでいいよ。それに、、」
父の耳元で小さな僕が喋った。
「僕がおとーさんまもらないとおとーさん寂しくて死んじゃうでしょ。だから、、」
僕の言葉に父は意外だという顔をしてまたも笑った。泣いているような笑い声だった。捻り出したような笑い声だった。僕の不思議そうな顔に見守られながら父さんが喋った。
「大丈夫だ、お父さんは強いから」
父さんはひとしきり笑った後、立ち上がった。去り際、父さんは腰を擦りながら
「お外で遊んできなさい、お父さんはまた寝るから、そんなに家で本ばっか読んでたらお父さんみたいにもやしになるぞ」
と言った。僕は父さんの言葉に潜む本心を感覚的に読みとって小さく頷いた。
冷えた机の上を乙女の風は走る。
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