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「栗林」の表札の隣にインターホンがあるのだが、幼い僕にはどう足掻いても届かぬので、家の扉を二三叩いて
「あーちゃんいますかー」
と呼びかけるのが常であった。平坦なアスファルトの道路の熱が靴を焼く。暫くして玄関を元気よく駆ける音がすると間もなく扉が開かれて彼女が飛び出してくるのだった。彼女は午前十一時の爽快な水色に、白のラインが入ったワンピースを着ていた。背後で彼女の母が顔を覗かせ、
「気をつけてね」
と彼女に言うのもまた常であった。彼女は飲みかけの小さな氷塊浮かぶ麦茶を母に手渡す。彼女は橙か、黄土色のショルダーバッグを肩に掛けていた。中には飴とハンカチと絆創膏があったのを見せて貰ったことがあった。彼女は面倒見が良い娘のようで、普段は大人しいのだが、誰かが怪我をすると直ぐに走ってきて救護した。彼女の絆創膏は潤沢で尽きることが無いのは、やはり彼女の几帳面、マメさが伺い知れるところでもある。
「手ーつーなごー」
「うん」
梓が手を差し出した。白くて小さな手。ともすれば壊れてしまいそうなくらいの小さな手を握る。豊満な親指の付け根は大福のように柔らかい。掌中で互いのほんのりと暖かく、僅かばかり湿った手と手で安心感を共有し、大抵の場合は遊び終わるまで握りあっていた。
道路を一直線に進んでいくと別れ道が見えてきた。左に行けば公園、右に行けば寂れた神社があった。神社は手入れしてこそのものである筈だが、神主の爺は
「祀るは山の神様、山と社が一体となって初めてお迎え出来ると言うもの。じゃから手入れは必要ない」
と常々言っていた。そんな爺ももう居ない。屋根から落ちたとかで救急車に運ばれて以来それきりだった。今では町内会がボランティアで清掃活動を行っているようで、随分綺麗になったとは耳にするがやはり、あの神秘的な昔日の社が僕は好きであった。それはこの神社をこよなく愛した父の影響でもあったかもしれない。石段は苔むし、両端を椎の木楢の木、マテバシイなどの照葉樹林が緑の闇をつくった。石段を登るとこじんまりとした社が佇んでいた。錆びた鈴が虚しく鳴り、賽銭箱は嘔吐寸前で、五円や十円を吹き出しそうになっていた。
社の裏側には祠があって如何とも喩え難い形状の石ころが仰々しく鎮座していた。その先に僕と梓の秘密基地があった。
探検心を擽る楠の幹を撫でながら湿った土の道を歩く。彼女も僕も緊張と興奮が入り交じったくすぐったい思いが背中を駆け巡るのを、掌の感触で共有する度に互いの顔を見つめるのだった。彼女は笑っていた。無邪気な、悪戯っ子のような笑顔。いつもの大人っぽい微笑みは姿を消え失せ、今は子供の顔が覗いている。堪らなく愛おしい。額からじんわりと汗が垂れていく。
「ん、」
僕はか細い声で呻いてから、腕で額の汗を拭こうとした。彼女は少し驚いた後、すぐさまショルダーバッグを開いてハンカチを取りだして僕の緊張を拭きとった。優しい柔軟剤の芳香がする白いハンカチ、隅には筆記体でAと書かれている。彼女は拭き取るとまた笑って歩きだした。後ろを木大木のうでから溢れた翠の斜光を鱗粉に揚羽蝶が舞う。
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