台風と麦茶とルーレット

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 蝉の啼く声と、居間のテレビからは高校野球の歓声が聞こえてくる。時間は午後の五時、時折吹く風は遥か遠い南の海からやってくる台風の予兆らしい。降水確率は二〇パーセント、気温三十二度、湿度は六十五パーセントで、雨が降るのは明後日からだと、スマホ画面の天気予報が教えてくれている。  今日は夕方から夏祭りに出かける予定だった。もう浴衣を着て、縁側で団扇を使っていたが汗は次から次へと吹き出て来る。久々に帰ってきた実家は二人いる姉の家族の帰省と重なったせいで、小学生が五人もいるまさに遊園地状態だった。今も縁側には小さい二人の姪が、”人生ゲーム”を持ってきていて、強制的に参加させられている。もちろん、彼女らも浴衣姿だが髪はばさばさのまま、上の小学生らの準備待ちなのだった。 「ごめん喉渇いちゃったからちょっと休憩」  そう言って台所に逃げると「えー」「まさみちゃん早くぅ」と声が追いかけて来た。  朝からずっとその調子で遊び相手をさせられたり宿題を見させられたりしている。これは姉たちからきっちりお小遣いを貰わねばやってられない。  取れるうちに夏休みを取っておこうと無計画なまま、昨晩帰郷を伝えるために実家に電話したのだが、とっくに家を出ているはずの上の姉が出て驚いていると、すぐに次の姉に換わって二人とも早く帰ってこいと言う。姉二人に言われてちょっと嬉しい気分でいたが、そうかこれが目当てだったか、とついさっき気が付いたのだった。  台所には母がいて少し早めの夕飯を準備してくれていた。どうせ屋台で何か食べるやろ、と素麺をゆがくらしいが、うちでは千切りにした胡瓜やハム、細くちぎったカニカマとか、薄焼きした卵焼きなんかを添えて食べるスタイルなので、母はそれらの準備をしている真っ最中だった。 「あんたなかなか子供あしらいが上手やない」 「お母さん、うち休みに帰って来てんのに仕事よりしんどいわ」  愚痴を言うと母はかっかっと笑って、あんたも結婚したらええねん、と言ったが、まるで会話が成立していないことに気付いているだろうか。どういう理屈、と独り言で返事をしながら冷蔵庫を開けると、中の瓶がぶつかり合う音がする。なかなかいい音だ。  ドアの内側の棚からガラスボトルの麦茶を取り出し、水切りに伏せてあるグラスを取って、はみ出るほど氷をいっぱいに詰める。その上から麦茶を静かに注ぐと、パキパキと氷が砕けて中に閉じ込められている気泡がはじけた。 「……夏の音やわ」 「年がら年中同じ音やと思うけどな」 「……いや風情」 「風情ねえ」  母はもう一度かっかっと笑った。子供のころはまあまあ美人で自慢の母だったが、最近はいわゆる「おかん」である。女ばかり三人姉妹の母親がこうなるのだから、油断していると自分もいつかそのルートに進みかねない。  早くも汗をかき始めたグラスを持って、姪たちの待つ縁側へ引き返す。その際に「こない暑いのになんでエアコンつけへんの」と零すと、母は鍋に水を張りながら振り返って言った。 「お父さんが仕事してはんのんに、うちらだけ涼んでたら悪いやろ」  あ、そう。と答えたが、定年間近の父は営業で外回りもするだろうが普通のサラリーマンだ。今頃はオフィスの業務用エアコンの恩恵にあずかっているに違いない。  だが、その理屈を出されると昔からなぜだか仕方ないと言う気持ちがむくりと起き上がるから、これはもう慣習と言うべきものだろう。 (いや洗脳かな)  縁側に戻ると姪たちが素直に待っていて「早く早く」と急かす。はいはい、と返事をしながらボードに据え付けられているルーレットに手をかけた。右回転させるために少しだけ左回りに戻してから思い切り親指と人差し指をねじる。ファスナーを開け締めする時のような音が鳴って、ルーレットが勢いよく回る。昔はこれがうまく回せなくて、姉二人を相手によく泣いたものだった。子供のころできなかったことが、今では当たり前にできるようになっている。たまの帰郷は時の流れというものなのか、成長やら老いやらを切実に感じさせる機会に他ならない。  ルーレットはやがて勢いを衰えさせて、ほとんど唐突にぴたりと「5」に止まった。10が最大のことを思うとやや物足りない数字だ。それは自分の半生を暗示しているようでなかなか世知辛い。 「まさみちゃん5やってぇ」 「どれどれ、1,2,3,4,5」  こまを数えながらボードの上を進めると、止まったマスには「一回やすみ」と書かれていた。  その時、南風がぶわっと吹き込んできて、軒先に吊ってあった風鈴が激しく鳴った。姪たちはきゃあきゃあ騒いで風で吹き飛ぶゲームの備品をかき集めている。台所からは母の声。 「もうできるから準備してぇ」  家のあちこちから「はあい」と返事する家族らの声が聞こえて来た。夏の盛り、短い休みに帰る場所があるというのは悪くない気分だ。  台所へ向かおうと立ち上がると、一緒にゲームをしていた姪たちが両手にそれぞれ絡みついてくる。 「まさみちゃん一回やすみやで」 「かわいそう」  下の子が心底気の毒そうに言うので、その顔をのぞき込んでにっかりと笑って教えてやった。 「大人の一回やすみはご褒美なんだぜ」  これが大人の余裕というやつだ。子供の時分は嫌だった「一回やすみ」も、今になってみると何だかわくわくするから不思議である。  また風が強く吹き込んできた。軒先で風鈴がちりんちりんと夏の音を響かせている。なんとなく呼ばれたような気がして振り返った夏空は、少女だった頃と変わらない色をしていた。
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