序章 終わらない夏休みのはじまり

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 私の返事を聞いた総務課長は顔をチェックシートに向けたまま目だけでこちらを見た。銀縁眼鏡の奥の小さな目と視線が合う。その目は訝しそうだった。  総務課長からすれば、渡された辞令にたまたま書かれていた土地に退職後も居座るのが不思議に思えたのだろう。  実家には戻れない。  親の期待を裏切って就職した会社をたった三か月で辞めたなんて言えなかった。  総務課長はそれ以上質問を重ねてこなかった。  必要な事務手続きをすべて終え、私はもうこの会社にいる必要はなくなった。社内にいる、全員の名前を覚えきれなかった事務員たちに挨拶をし、私は会社を出た。  外は相変わらず雨が降っていた。少し歩いただけでパンプスの足元が濡れていく。バス停に辿り着くと、バスが来るまでにはまだ時間があった。私は鞄からスマートフォンを取り出した。  メッセージアプリを起動し、入社前懇親会の際に作られた同期たちのグループ画面を開いた。誘われたから入ったものの、このグループチャットの中で私が発言するのはこれが初めてだ。  営業部の藤沢です。本日付で退職手続きをしました。今までありがとうございました。  メッセージを送信すると、すぐにグループ退会のボタンを押した。返事が来るのも来ないのも見たくなかったからだ。  傘に雨粒が当たる音を聞きながら、ぼんやりと考えていた。
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