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「……く、クジラくん……わたし、ぜったい、ここに来れる格好じゃない……」
「え、何で? 可愛いじゃん、そのリネンのワンピ。足元のサンダルも涼しげで上のコーデと合ってるし、ペディキュアの色のチョイスも好き。コーラルピンクってひーちゃんに似合ってるよね」
「あ、ああ、うん、ありがとう……でも絶対違う、絶対ここサンダルで来る場所じゃないって……! わたし、てっきり焼肉屋さんとかそういうお店に行くんだとばっかり……」
「え? 焼肉がいい? お店変えよっか?」
「いっいえ!! 大丈夫です!! ここで大丈夫!! お、お肉楽しみぃ〜!!」
平然とお店を変えようとするクジラくんに焦ったわたしは、強引に笑顔を作って彼の背中をぐいぐいと押す。
こいつ、さては飲食店で働いたことなんて今までに一度もないな。貸切にまでしといて直前で予約のキャンセルなんてしたら、店側のスタッフにどれだけ迷惑がかかると思ってんだ。このセレブクジラめ。
脳内だけで彼を責めながらその背中を睨んでいると、不意に横から別のスタッフさんに「お手荷物、お預かりしますね」と声をかけられた。そのまま抱きしめていたトリケラトプスくんがお預かりされてしまい、心の中だけで『あああああトリケラトプスくぅぅん!!』と絶叫するが、そのまま彼は連行されて行ってしまう。
わたしがぬいぐるみとの別れを惜しんでいる間に、周囲の情景はいかにも高級そうなレストランへと様変わりしていた。高い天井に、映画で見るそれさながらの煌びやかなシャンデリア。さっそくわたしは尻込みし、今しがた別れたトリケラトプスが恋しくなる。
「お席はこちらになります」
程なくして案内されたのは、夕陽に照らされる街が一望できる窓際のテーブル席。テーブルクロスや布ナプキンの質感まで一級品なのだろうと素人目から見ても分かるようなその高級感に早くも圧倒されて手汗が滲んだ。
この男、普段からこんなお店でご飯を食べていたのだろうか。あまり外食しないイメージだし、デリバリーを頼む際もいつもわたしの好み優先でお手頃な下町フードばかり頼んでいたから、今の今まで全く知らなかった。もしかしたらずっとわたしの生活レベルに無理矢理合わせてくれていたのかもしれない。そうだとしたらなんだかすごく申し訳ない、ごめんねクジラくん。
「く、クジラくんって、いつもこんなお店でお食事するんだね……なんかごめん……」
「ん? そんなことねーよ。フツーにラーメンとか牛丼とか好きだし、特別な時しかこういうとこ来ない」
「特別? 今日も?」
「うん、そう。今日は特にトクベツ」
秘密でも告げるみたいに小声で耳打ちして、クジラくんはくすりと微笑む。その悪魔的な微笑みがどうにも色っぽく映って、わたしは頬を熱く火照らせた。
とくとくとく、やがて薄はりのフルートグラスに透明なシャンパンが注がれる。
互いのグラスを控えめに合わせて乾杯し、甘めのシャンパンをひとくち喉に流し込んだあとで、クジラくんは深く息を吐き出すと「あのさ……」と口を開いた。
「こういうの、なんか慣れなくて……照れくさいし、酔わないうちに渡そうと思うんだけど」
「……え?」
「指輪。買ってきた。アメリカで」
頬を掻きながら告げ、クジラくんは可愛らしいサーモンピンクのリングケースを取り出してテーブルの上に置く。わたしは大きく目を見張り、中から出てきたキラキラの指輪に言葉を失ってしまった。
細やかな宝石が散りばめられた高級感のある控えめな装飾と、ピンクゴールドのシンプルなS字ウェーブライン。裏側には籍を入れた日の日付が刻まれている。
いかにもなエンゲージリングに、わたしは無言のまま硬直した。
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