第16話 「せーの」

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 わたしは彼の言葉を途中で遮り、呼びかける。するとクジラくんは叱られる前の子どものように肩を震わせ、素直に口を閉ざした。  その様子が少しおかしくて思わず笑ってしまいそうになりながら、わたしは彼を抱き締める。 「わたし、逃げないよ。クジラくんとずっと一緒にいる」 「……っ、でも……」 「でも、何? クジラくんはわたしに逃げて欲しいの? 喜んであの離婚届に名前書いた?」 「そんなわけねーだろ!」  クジラくんは即座に顔を上げて否定し、「俺が、どんな気持ちであれに名前書いたと思ってんだよ……!」と表情を歪める。 「あんなもん、書きたくなかったに決まってんじゃん……あの紙貰うのもキツかったし、ひよりに渡すのも辛かったのに……」 「うん。わたしも同じだよ、クジラくん」 「……同じ……?」 「わたしも、あんな紙に名前書きたくなかった。あの紙に名前書いた時が、多分一番苦しかったし、幸せじゃなかった」  優しく告げて、彼の目を見つめた。  クジラくんの黒い瞳は潤み、やがて泣き出しそうに揺らいで、少し赤く充血する。 「ねえ、あの離婚届、必要なのかな」 「……」 「クジラくんは、優しさのつもりでわたしに逃げ道を用意したのかもしれないけど……でも、アレのせいで、いま二人とも苦しい気持ちになってるでしょ?」 「……うん」 「だから、きっとね、あんな紙いらないんだと思うの。あれがあるから、二人とも不安になっちゃうんだよ」  わたしの言葉にクジラくんは目を逸らし、何も言わない。けれどわたしは構わず続ける。 「わたしね、幸せになりたい。幸せなお嫁さんになりたい。けど、クジラくんにも幸せでいて欲しいんだ」 「……」 「クジラくんのことをずっと大事にして、幸せにしたい。子どもができてからも、おじいちゃんとおばあちゃんになってからも、ずっとずっと」 「……ひより……」 「怖がりなクジラくんが言えないなら、わたしが代わりに、ずーっとずーっと何度でも言ってあげるよ!」  満面の笑みを向けて、背中に回した腕で力いっぱい抱き締めた。クジラくんは一瞬体を強張らせながらも、やがて耳元で鼻をすすり、わたしにそっと頬を寄せる。 「わたしが一生、あなたを幸せにします!」 「……っ、うん」 「わたしが一生、ずーっとそばにいます!」  ──わたしと一生、夫婦でいてください。  そう耳元で告げた時、クジラくんは強くわたしを抱き締め返した。やがて、「俺も……」と震える声がか細くこぼれ落ちて、わたしは彼の背中をとんとんと叩きながら耳を傾ける。 「……俺も、ひよりを……一生、幸せにするよ……」 「ふふ、やーっと言ってくれた! 絶対だからね? 浮気しちゃだめだよ?」 「浮気とか絶対しねーよ……」 「また離婚届持ってきたら怒るからね?」 「それこそ、本当にもう二度としません……」  素直で弱々しいクジラくんにわたしは微笑み、また強く抱きしめる。  腕の中の愛しい人。  いつも強引なのに、ほんの少し臆病で、一緒にいると幸せな、大好きな人。  そんな彼の体温をしばらく独り占めした後、どちらからともなく見つめ合って、自然と互いの顔が近付く。 「俺と、一緒に幸せになろう……ひより」 「うん、もちろん! 喜んで!」  涙目で微笑むクジラくんに額を寄せ、触れるだけの長い口付けを交わして、わたし達は互いの言葉を封じ込めるように、幸せな誓いを嚥下した。
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