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彼女の歌声を聞いて、昔の記憶が僕の胸を駆け巡った。
それは、僕が小学生の時、高校生だった兄の学校祭に行ったことがあった。
体育館でコンサートイベントのようなものをしていて何気なく入ってみた。何の飾り気もない体育館のステージで、中年の男の教員が一人でギターの弾き語りをしていた。何の歌だったかは覚えていないが、歌っていたのは小太りのオッサンだったと言うイメージが今でもある。
その時、僕が今まで聞いてきた歌の中で、心底本当の本当に上手だという歌を聞いた。
ギター1本で優しく歌う声が、僕の胸から聞こえて心に響いてきた。なんの変哲もないオッサン教員が、ゆっくりとしたフォークソングを歌っているだけだが、ずっとこのまま何曲でもこの先生の歌が聞きたい、終わらないでほしい。と言う気持ちに満たされた。その場にいた聴衆全員が惜しみのない拍手を送っていた。
これこそが僕の中で「上手な歌」というイメージが出来上がった出来事だった。このオッサン先生の歌を聞いて以降、有名歌手のコンサートに行こうが、歌唱コンテストを見ようが、あの時のように心に響く歌を聞いたことがなかった。
それが、今、あの時以来の幻の歌声を聞いたのだ。中島緑の歌は、正に「上手な歌」だった。もっと聞きたい。いつまでも聞きたい。
ふと、彼女の歌声は僕だけが聞くにはおおげさだがあまりにも畏れ多いと強く感じた。
僕の心の風船がはじけた瞬間だった。
中島緑の歌を、みんなにも聞いてもらいたい。本当の彼女を輝かせたい。
彼女がそれを望んでいるのかいないのかは、わからないが、僕は、明らかにそれを望んだ。
僕は、思い切って歌い終わった中島緑に声を掛けてみた。背後からなのでなるべく驚かさないようにソフトに言った。
「中島さん」
中島緑は、海の方を見たまましばらく反応が無かった。恥ずかしいのか、こっそり歌を聞かれて怒っているのか、戸惑っているのかは僕にはわからなかった。
やがて、僕に背を向けたまま、言った。
「聞いてたのか?」
低い脅すような声だった。
「今の歌、聞いていたのか?」
再び彼女は言った。
怒ってるのだろうか?
「う、うん。聞いていました」
僕は、正直に答えた。隠しようがない。ごまかす気もないし。
中島緑が振り向いた。そして、
「そう。やっぱり三上君だったか」
と言ってほほ笑んだ。よかった少なくとも怒ってはいないようだ。
「あ、ああ。ごめん。黙って後ろで聞いてて、聞き惚れてしまって」
「聞き惚れる? 何か古風な表現ね。それって『聞き』と『惚れる』のどちらにウエイトがかかってるの?」
中島緑が、聞いて来た。僕は、意外だった。中島緑ってこんなにしゃべる子だったのか?
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