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1 屋上の歌姫
かすかな風圧を頬に感じて、ウトウトしていた僕はハッと目が覚めた。
僕の横の席に座っている中島緑が急に立ち上がったのだ。
中島緑は、ふらふらと教卓へ行き、先生に何事か告げて教室から出て行った。
またか。中島緑に限ってはよくあることだ。保健室か、トイレだろう。
中島緑は、いつも疲れたような顔をしていると、僕は思う。
おそらく1年生の時から同じ顔だろうとは思うが。讃岐西高校3年生になってから、さらに気だるそうな動きが加わっている。
進路選択を前にして授業がしんどいのかなあ。
なぜか今日は、やけに彼女のことが気になった。なんでだろう。別に中島緑に対して恋愛感情的なものを意識したことはないが……。
あの気だるそうな動きが、僕の今の心とシンクロしているんだろうか。
そう、僕、三上伸二は、最近気だるいのだ。何と言うのかなあ、こういうのを閉塞感というのか、不完全燃焼というのか……ちょっとちがうかな。
心の奥にある自由に駆け回りたい自分を、逆に自分自身が無理やり押さえつけている感じだ。
車のアクセルとブレーキを同時に踏んでいるみたいなもんだな。
何を押さえつけいているかは、自分のことながら言葉ではうまく表現できない。
押さえつけていないと、何をやり出すかわからない自分になってしまうのも怖いが、自分がほんとうに何をやりたいのか、思いっきり開放してみたいという気持ちもあった。
そんな膨らみ切った心の風船のようなものを、彼女も持っているように感じる。
気が付くと僕は、立ち上がって先生の所に行ってトイレに行かせてくださいと告げていた。
先生は特に反応するでなく、「どうぞ」とだけ言った。そして黒板に向かって数式を書き始めた。
僕は、教室をでた。中島緑を探してみよう。今の彼女と話をしてみたい。
僕は、保健室をのぞいてみた。誰かベッドで寝ているようだが、丸刈りの後頭部が見える。男子だ。
じゃあトイレか? いくらなんでも男子の僕が、女子のトイレに入るわけにはいかないし。
トイレの入り口で聞き耳を立てるか? なんて、それこそ変態だ。先生に見つかったら即停学だ。おまけにトイレ野郎とかいうあだ名をつけられるだろう……。
やめておこう。このまま教室に帰るのもかったるいし。屋上でも行って深呼吸でもするか。
そういえばこの学校に入学して3年経つが屋上には行ったことがない。
行ってみることにした。この高校の屋上へのドアは、鍵がかかっていない。つまりいつでも屋上に出られるようになっている。僕は階段を上り切り屋上へのドアを開けた。
明るい。
青い。
平成初頭の5月の空は、高いぞ。
僕は、ドアを出て、周りを見渡した。
海を臨むフェンスの前で一人、少女が立っていた。セミロングの髪を左右でそれぞれ束ねている。
その後姿に見覚え有りだ。中島緑だった。
彼女は、こちらには気づいていないようだ。ずっと海を見ている。左手の指をフェンスに掛けて、体を軽く預けている。
そして、歌い始めた。
歌は『レベッカ』の『Maybe Tomorrow』だった。たまたま、昨日ラジオで聞いた曲だったのですぐに分かった。
大概このような状況では、呟くように歌うものだが、その歌声は、大きな声ではないが、はっきりと通る声だった。
その歌声を聞いた時、僕は衝撃を受けた。
胸が締め付けられる感じとそれが快いと思える感じが同時に起こった。
それは、恋心的なあるいは胸キュン的なものじゃなく、もっと厳かな、ずっと聞いていたいというような純粋に歌声に引き付けられる感じだった。
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