位置について

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 高校三年生。  昭和の名曲ではない。私の置かれた厳しい現状のことである。  詳細に著すと、『部活に青春を捧げたが輝かしい成績を残すこともできず引退し、さあいよいよ受験勉強に本腰を入れますよ、という矢先、模試の結果はC判定で、合格は五分五分だとわかり、しかし受験勉強をやる気になれない、高校三年生女子』という厳しい現状である。  自分の部屋で、机の上に数学の問題集とノートを開いてはいるが、ノートはまだきれいなままだ。返品できるくらい美しい。  時計を見ると午後四時。  以前なら部活の時間だった。最初の苦しい時間を過ぎれば、あとは気持ちよく風を切り、ザッザッという足音だけが聞こえる、静寂の中で走る自分がいるだけ。懐かしい心地良さ。  陸上部で、四百メートルを一年のときからずっと走ってきた。  校内の選考会で一度も良いタイムを出せなかった。だから地区大会に一度も出られなかった。  勉強と両立できてこその部活、というのが私の美学だったから、普段から勉強は手抜きせず、しっかりやったつもりだったが、あるときを境に、得意の「集中力」が皆無になった。  それは有川君に告白された日。  有川君は陸上部のエースで、百メートルで関東大会まで進んだ、私の憧れの男子だった。  同級生だけれど、同じクラスになったことはない。だから部活を引退すれば、ほとんど会うこともない。  憧れていたっていっても、そんな熱烈な片思いをしていたというわけではない……つもりだった。地区大会にさえ出られなかった私からすれば、地区から都大会、そして関東大会までいけた有川君に憧れるのは、ごく普通のことだったし、有川君はもともときれい系の顔立ちで、私の好みなのである。  ただ、それだけだった、はずだったのに。 「香月、俺が関東大会で予選を通過したらさ、俺達、つきあお?」  有川君は学校の駐輪場から自転車を出すとき、小声でそう言った。  告白するために、朝、私の自転車の隣に、有川君の自転車をわざわざ停めたのだと察した。 「な、なん、で?私?わたしぃ?」  パニックに陥った自分をコントロールできない。 「なんでって……いつのまにか?敢えて言うなら……ひたむきなところ?」 「地区大会の選手にも選ばれない、ダサい私が?」 「それ、関係ある?」 「……」  それ、関係ない?三年間の集大成が校内の選考会で終わった私なんかに、なにか魅力でも? 「あの……ちょっと……考えても、いい?」  私は動揺し、考える力をほとんど失っていたが、微かに残る思考力で、「縁起でもないけれど、もし予選通過しなかったらどうなるのだろう」という疑問を導きだした。  結果、有川君は予選を通過できず、彼の三年間の陸上生活は終わった。  有川君から連絡はなく、毎日有川君のことで頭がいっぱいになった私は、初めて模試でC判定を取った。  遠くで鳴っていた雷のゴロゴロという音は、いつのまにか近づいてきていた。手元が急に暗くなってやっと気づいた。  あ、電気つけなきゃ……。  心ここにあらず。私はメッセージの受信音の鳴らないスマホを、ただ眺めて、生きている。  そのときだった。いきなり窓の外に閃光が走ったかと思うと、ドーンッ、と大きななにかが落ちたような音が近くに聞こえた。そして部屋の電気が消えた。 「ひゃっ……、なに?」  雷で停電なんて、小学生の頃以来だ。  外でバラバラバラッ、と激しい音がした。窓から外を見てみると、小さく丸い氷の粒が屋根や車や自転車に激しくぶつかるように、空から落ちてきていた。  これ、ひょうだ。初めて見た。ひょうってどう書くんだっけ。  私はスマホを手に取り、ひょう、と入力した。雨を包む、で雹。なるほど。  ピロン。  見ていた画面の上に不意にメッセージが届いた。 「うわっ!」  雹が降り落ちる大音量に閉じ込められている部屋の中で、スマホの着信音はやけに響いて聞こえた。  スマホの画面は、有川君からメッセージが届いていることを知らせていた。 「有川君」という文字を見た途端、私の心臓はいきなり早くて大きい鼓動を鳴らす。明らかに不整脈で、呼吸が苦しい。  震える指でスマホを操作し、メッセージを表示させる。 『大丈夫?停電?どこにいる?』  それは心配で心配でたまらない、という気持ちがだだ漏れのメッセージだった。それだけで私の胸はキュウンと音を立てそうなくらい、ときめいた。 『大丈夫。家にいるよ。有川君は?』 『市立図書館。勉強してた。図書館は停電してる。ここから香月の家、近いから、もし家にいるなら香月も停電で困ってるかもしれないと思った。学校にいるかもしれないとも思ったけど』 『心配してくれたんだね。ありがとう』  私がこのメッセージを送ると、スマホは鳴らなくなった。  会話、終わったのかな。  そう思い、スマホを机に置こうとした瞬間、またピロン、と音がした。 『連絡しなかったこと、ごめん。予選で落ちて、カッコ悪くて、連絡できなかった』  胸が詰まって涙が溢れた。カッコ悪くなんかない。決して、決して!どんなにきつい練習をこなしていたか、見てきたから。 『充分カッコいいよ』  私は考えて考えて、そう返事をした。恥ずかしかったけれど、ほかに言葉を思いつかなかった。  外はまた一瞬の激しい光のあと、ドーンッと小刻みに家が揺れるように響く大きな音が何度か続いた。雷が近くに落ちたのかもしれない。  心細くなってきた頃、雹は雨に変わった。  恥ずかしいメッセージの返信はすぐにあった。 『近いうちに会える?会って話したい。俺はメッセージで告白しないって決めてるから』  有川君、それ、告白してるよ。  私はちょっとおかしくなって、心細さを忘れた。  私は姿勢正しく椅子に座り、机の引き出しに入れてあった模試の結果を取り出した。  判定が書かれた四角い枠がやけに大きく見える。  ひと月前、C判定が目に入った瞬間、私は「恋愛は私をダメにする」と思ってしまった。恋愛にうつつを抜かすと成績が下がるんだ。真面目が正義、真面目にコツコツ努力することが正しいんだ。このC判定は正しくなかった私の象徴。  私はそう思っていた。でもそれって真実だったの?私、勘違いしてない?  私はスマホを手に取り、有川君とのメッセージのやりとりを読み直した。 『近いうちに会える?』と訊くのは勇気が要っただろう。  駐輪場で告白してくれたときも、勇気を出してくれたんだろう。  あの告白のおかげで、私は幸せな気持ち、ときめく気持ち、感謝したい気持ちをを知った。  誰かを好きになる気持ちは「悪」じゃない。  誰かを好きだと思う気持ちは、誰にも傷つけられてはいけない、尊いものなんだ。  私は有川君に返信した。 『うん、近いうちに、必ず会おう。私もスマホで告白しない主義だから』  夕立は去って、まだ雨は降っているものの、だいぶ小雨になり、雲の切れ間から太陽の明るい光が街を照らし始めていた。  部屋の電気もパッとついて、一気に視界が明るくなった。  もうすぐ雨があがる。  私はもう一度、有川君にメッセージを送った。 『やっぱり今から会う。すぐ図書館に行くから、待ってて』    位置について、用意、パァン!  何度も何度も反射的に走り出したあの号砲が、心の中で鳴った。
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