蝶々か、それとも

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 自己と他者の境目が溶け出し、次元をこえた世界が展開する三樹の思考にほんのわずか引っ張られていたようだ。哲学的思考を弄ぶ時間ではない。起点を自分に戻して状況を確認する。  夢は何もかもがあやふやで、掴めそうで掴めない不安定さがあるが、今の私には、主人公の前だけで決められた台詞を吐くロボットではない、きちんとした自己認識と現実感がある。昨日の夜はカレーを食べた。きのこが入っていて美味しかった。一昨日はネットでTシャツを買った。近々配送されるはずだ。私の生まれてから今まで途切れなく続いてきた流れが確かに存在する。  散乱した床を見て、とりあえず今日は診察を終えようと考えた。 「三樹君の願いが良いように叶うよう、私も一緒に考えたいと思うよ」  おざなりな言葉に聞こえたのだろう。三樹は私に何も答えずにドアへ歩き出した。  三樹の背に医者としての立場を忘れて、純粋に聞いてみたい気がした。夢なら、自由に空を飛べたりしない? これが夢だと気づいたのなら、美味しいものを食べてやろうとか、好きな人といちゃいちゃしようとか思わない? もちろん、飛べると思って高い窓から飛び降りたらたいへんなことだが、飛ぼうとして飛べない現実が見えたなら。  三樹が振り向いて答えた。 「僕はもう夢の中で何かをすることに飽きましたよ」  偶然だろうが、口に出していないことに対する答えが聞けたように思えた。三樹君、大学生の君は、小学生の君は、女性の君は、もしかしたらまだ見ぬ君は、一体何が好物なんだろう。性別も年も違う自分が好きな相手は誰なのだろう。彼の肥大した脳の内側では探すことさえできないのではないか。こんがらがった認識の糸をほどく鍵を、私は彼とともに探していくつもりだ。  散らばった本をよけて、三樹はまた歩き出した。 「足、痛くなかった? けっこう本、重かっただろう?」  何気なく声をかけた。三樹は再び立ち止まる。返事をしない。……夢の中では、そもそも痛いと感じるのだろうか。 「目が覚めたら、僕は先生かもしれませんね。それとも僕が夢なのかな」  三樹は足元を見つめて続ける。 「おやすみなさい、先生」 「先生、三樹君、一人で出口に向かっていますが、よろしいのでしょうか」 「看護補助者はついていないのか? 悪いけど、病室の方へうまく誘導してもらえますか」  看護師が出て行く。私は電子カルテに向かい、入力しながら考える。もし彼の言うことが本当だったなら。  夢の空間で起こることは全て自作自演、誰もが彼自身に違いない。私が彼の一部なら、眠れば次に覚醒することはないだろう。彼が目覚めれば、私は世界が崩れ去る音を聞く。三樹はずいぶんと残酷な挨拶を残していった。  私は三樹とは違う意味で告げよう。おやすみ、三樹君。次に朝を迎えた時こそ、本当の自分に出会えますように。 「という夢をみたんです、先生」  意気込む患者を前に、今日もいつものように診察が始まったことを知る。
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