蝶々か、それとも

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 患者の話を聞いて、またかと思った。顔には出さない。  春頃からこの辺りで目が覚めない病気が流行っていると聞く。その眠り病に侵された者は、食事もとらず排泄もしないで、眠り姫のようにひたすらこんこんと眠り続ける。二、三日、長くても四日ほどで目が覚めるようだ。  まだ社会問題になるほど有名な事象ではないと思う。それでも病院に訪れる人々から、虚実交えて波紋のように話がゆらゆらと広がっていく。眠り病にかかった者のほとんどは、起きたら数日過ぎていたことにただ驚くばかり。念のために病院を受診するのだが、体に異常はないらしい。  最近、噂の泉に新たな雫が滴下されたようだ。夢の中で夢をみて、そこでまた夢をみて、というふうに、何重にも夢を重ねてしまうことで、起きるのに時間がかかってしまう病らしい、などとちらほらささやかれている。そんなデマが発生することに多少興味がそそられるものの、現実の業務に影響があるのはいただけない。眠り病にかかった入院患者を診察するのはもう四人目である。  診察に入ってきた少年を見て、いつも通り挨拶をする。美しく傷のない人形のような子だ。物言わず立っているだけで、皆の視線をすっと奪う。 「こんにちは。今日は少し風が強いけど、いい天気だね」 「風が吹けば桶屋が儲かるって言いますね」  あいかわらず煙に巻くようなことを言う。笑顔で流して、本題に入った。 「内科や脳外科の方で検査してもらったようだけど、特に悪いところはなかったんだよね? 何か自分で気になる、おかしいって思うところはある?」 「体調は特にどうもないです」 「睡眠に問題はない? 先日、例の眠り病にかかって以来、睡眠時間が長くなったり、逆に寝られなくなったりということは?」  彼は私の質問には答えず、突然丸椅子から立ち上がった。壁際の本棚へ目を向けると、何の感情も浮かべずにぶ厚い医学書をはたき落とし始めた。看護師は乱雑に床に落とされる書籍と彼の両方に目を離さず、状況を見守っている。 「三樹君、どうしたのかな。気に入らないことでもあったかな」  淡々としていて興奮しているようにも見えないが、声掛けを続けた。頭の隅で片付けが面倒だなとちらと思った。  本が足の甲に当たり、三樹は動きをとめた。 「三樹君、何か悪かったのかな。私に教えてほしい」 「夢の中で話すことに意味があるとも思えませんけど」 「夢の中って?」  三樹は答えることを放棄しそうな素振りを見せたが、一拍おいて答えた。 「僕は目を覚ましたいんです。この夢から出たい。それをあなたに言ったところで……暴れたところで、解決するかどうか分からないけど」  三樹は今この世界が夢の中だと言っている。私や看護師、この部屋の外で順番を待っている患者、廊下を急ぎ足で歩いている同僚、全ての者が彼の夢の登場人物でしかないというわけだ。 「どうしてここが夢だと思うのかな」 「目が覚めると毎回違う状況だからです。今回は起きたらここの病院の入院患者だったけど、目が覚める前はアパートで暮らす理系の大学生でした。雪遊びをしている小学生だったこともあるし、女の子になっていたこともある。本当の自分に戻りたい」  だいぶ妄想が進んでしまっているようだ。普段おとなしい彼と話していて、そんな気配はなかったように思うが、見落としがあったのかもしれない。今までの患者ではこんな妄想が出てきたことはなかった。  三樹の話はまるで胡蝶の夢のようだ。中国の思想家が蝶となって飛びまわる夢をみたが、自分が蝶になる夢をみたのか、蝶が自分になる夢をみているのか、夢か現か判然としないという故事成語である。  私たちが実在しない彼の頭の中の人物というだけではない。三樹の認識の中では、今この目の前の少年ですらないのだ。羽を休めた蝶が化けた思想家か、枕に頭を置いた思想家が変化した蝶か。合わせ鏡を覗いたら、顔の違う自分がどこまでも終わりなく連なっている恐ろしさ。冷たい鏡の前に立っているのは誰だ。そこに待ちわびた本当の自分がいる。
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