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 それから俺は用もないのにその花屋の前をただ通り過ぎる事を繰り返していた。あの店員(青年)はいつも忙しそうにしていてこちらに気づいた様子はなかった。だからこちらからは見放題だった。  彼は羊の化身かなにかか? いや獏か? そんな馬鹿げた事を本気で考えてしまうくらい万年睡眠不足の身としては不思議で仕方がなかった。  花屋に通う理由、それはあの青年を見かけた日は不思議とよく眠る事ができたからだ。ただそれだけ。  今日も彼の姿をひと目見てその場を去ろうとした時肩をぽんっと叩かれ振り向くと、さっきまで忙しそうに花束を作っていた彼がすぐ傍にいた。僅かばかり息も上がっていて、まさか走ってきてくれたのか? 手には作り上げたばかりだろう小さな花束を持っていた。 「えっと……?」 「はい。これ」  そう言って手に持っていた花束を差し出された。薔薇のように気品あふれる感じのものではなくデイジーを中心とした温かく可愛らしいものだった。まるで目の前の彼のような――。 「お客さん花に興味があるんでしょ? でも店に入って買う勇気はない」  そう言って、ニィと悪戯っぽく笑う彼。  最近俺が毎日のように店の前をうろうろしていた事に気づいていたのかと、少しだけ狼狽える。 「え、いや――俺は……」 「ふふ。これ差し上げます。あ、もしかして自分用じゃなくて誰か大事な方に――でした? だったらもっと違う感じがいいのかな……」 「あ、いや。そんな人は――いない、から」 「――――あぁ……そう、なんです、ね」  そう言って微笑んだ青年の顔は切なそうにも嬉しそうにも見えて、なぜか胸がぎゅっとなり彼から目が離せなくなってしまった。  知り合って、と言ってしまっていいのか分からないほど一方的に見つめてきたわけだが、彼はいつも笑っていた。雨の日も風の日も、イベント事で普段の何倍も忙しくしている時も、明らかにひやかしだろうお客に対してさえ決して笑顔を絶やさなかった。俺が知る彼は生命力に溢れていて、そんな表情はこれまで一度も見た事はなかった。見慣れぬ彼に俺の心臓はバクバクと騒ぎ出し、少しだけ頬も熱を持ったように思う。なんてことない会話だったのにどうして?  俺は色々な事を誤魔化すように青年から顔を逸らし、軽く咳払いをした。そしてふわりと香る花の香りを意識した。  とても優しくて温かい落ち着ける香り。ずっと感じていた――――。そこまで考えて俺ははっとした。  そうか、俺が夢の中で感じていたのはこの香り、デイジーだったんだ。きっとどこかで香りを嗅いで、いい香りだから気持ちを安らげてくれたんだな。  彼はデイジーによく似た雰囲気をしている。だから俺は彼を見かけた日はよく眠る事ができたんだ。きっとそういう事だ。  俺はデイジーの花束を受け取り、大事そうに胸に抱えた。  それを青年が目を細めて見ていた事には気づかなかった。
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