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8 むせ返るような花の香り、きみの匂い
「なん……で……?」
信じられない事が起こっているみたいに杉本くんの声が震え、唇が戦慄く。
俺からの愛を少しも期待していなかったみたいに。俺が『運命』とうまくいく事が俺の幸せで、『運命』に勝てるのだと信じているみたいに。
俺がαだから? だから『運命』と出会ったなら他に愛する人がいても『運命』と番う事が『運命』に勝つ事だと言うのか、アイツみたいに――。
確かに少し前の俺もそう考えていた。『運命』に負け続けた俺は敗者で、幸せにはなれない。もしも次に俺の『運命』に出会ったとして、『運命』と番わないという事は完全なる敗北を意味した。だから「勝たせてあげる」なんて事を言って、俺を『運命』の元へ笑顔で送り出すつもりなのだろう。実際世間ではそう見るのが普通だし、それほどまでに『運命』は甘美で、魂が求めてやまない至高の宝玉なのだ。そんな宝を自ら手放すバカはいない。
だけど今の俺にはそうじゃないって思えるんだ。きみと出会ってしまったから。俺は『敗者』でも『馬鹿者』でもいいんだよ。ただきみといる幸せを諦めたくはないんだ。
「俺は……杉本くんの事が好きだよ。『運命』に嫌われてるって言ったけど、詳しく話すと――俺には以前番がいたんだ。その番に『運命』が現れて、俺の元をあっさり去って行ったよ。俺と番いながらも『運命』を求めて待っていたらしいんだ。愛して守ってきたはずなのに、ずっとアイツの事を苦しめていたのが自分だったんだって分かって自分の事が許せなかった。『運命』にはどうあったって勝てやしない、と敗北感も感じていた。だけど及川さんと話してそれは違うんだって思えたんだ。友人が、覚悟もなく俺と番になった元パートナーが悪いってバッサリ。それはもう見事にバッサリだよ。すごいよな。俺がずっと悩んで自分を責めてきた事はまるで意味がなかった。でもすっきりしたんだ。俺はもうアイツの夫でも番でもない。やっとアイツへの心配でも懺悔でもなく、ただの友人として幸せを願う事ができたんだ。そして自分の幸せも――。俺は覚悟を持ってきみと付き合いたい。そして将来きみが受けてくれるなら――きみと結婚したい。もし俺の前に『運命』が現れてもきみを選ぶ。俺がきみを選ぶ事で『運命』に負けたとは思わないし、もしそれが負けで、負け続けたとしてもきみを手放す事なんて考えられないんだ」
ぴくりと揺れる俺の腕の中の杉本くんの身体。
「だけどオレ――、あなたを傷つけると思って嘘を――」
「嘘?」
そう問い返した途端、ぶわりぶわりとむせ返るような花の香りが辺りに広がった。
――デイジー……。
「――え?」
似ているけど少しだけ違うこの香りは――。これはΩのヒートだ。香りの元は俺の腕の中――。
「杉本……く……ん?」
「ごめ……なさ……いっオレ、オレ……っ」
杉本くんがΩ――――?
――どうして嘘を? 俺を傷つけるって……何で?
考えたくはないけどアイツみたいに――何か――。
心がざらりとして闇に引きずられそうになるが、ぐっと思いとどまる。
俺は覚悟を決めたはずだ。今大事なのは彼を疑う事ではなくて、信じる事だ。そして疑問や不安に思ったなら訊けばいい。
だけど今は彼を早く安全な場所へ連れて行かなくては――。
はっはっと短く息をして苦しそうにしている杉本くんを抱き上げて俺の自宅に連れて行く事にした。
何の用意もなくヒート中のΩを連れ歩くわけにはいかないし、タクシーだってΩ専用車をすぐに捕まえられるか分からなかった。幸いここから俺の自宅へは徒歩で10分くらいの所にあり、走れば本格的にヒートに突入するのに間に合うだろう。
段々濃くなっていく匂いに焦りを感じながらも杉本くんを抱えて必死に走った。
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