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 楓君とのあの悲しい別れから八年の歳月が流れていた。  俺は三十六歳。相変わらずの独り身で恋人と呼べる相手もおらず、ヒートも満足にこないポンコツΩのまま。  父さんもそろそろ後継者に任せて引退を考えるような年齢なのに申し訳なく思う。  だからせめてもの罪滅ぼしとばかりに会社の業績を上げるべく一生懸命仕事にうちこんでいた。  忙殺される毎日。それでも少しのふとした瞬間、思い出すのはあの婚約者だった(・・・)天使の笑顔。 『薫さん、薫さん、大好き!』  楓君とのやり取りのひとつひとつが今でも鮮明に思い出されるが、やっと最近楓君の事を思い出しても涙は出なくなっていた。こうやって思い出になっていくのだろうか……。  今でもまだ苦い想いが胸の奥で燻ぶり続けている。コレ(・・)が無くなる日なんて本当にくるのだろうか……。  小さく溜め息を吐いた。 「及川さん、お昼そこの公園で食べませんか? 今桜が綺麗で、ぜひ一緒に見たいと思って」  と、人懐っこい笑顔を向けるこの男は最近よく組んで仕事をしている上島(うえしま)だ。転職してきたばかりで危なっかしいところはあるが、飲み込みも早くすぐにひとり立ちできるだろう。  俺よりも六歳程年下のαには珍しくおっとりとした性格をしている。 「そうだな。たまにはいいかも」  俺は昼用に買ってあったサンドウィッチを片手に上島の後に続いた。 「俺、コーヒー買って来るんでここに座って待ってて下さい」 「ありがとう」  コーヒーを買ってくるという上島にお礼を言うとベンチに座り、ぼんやりと桜を眺めた。  本当に綺麗だな。ここに楓君が居たらどうだったかな?  俺の頭についた桜の花びらを一生懸命背伸びして、でも届かなくてジャンプまでして取ってくれようとしたのかな?  手の中に落ちて来た桜の花びらを見つめ、ぴょんぴょんと飛び跳ねる楓君を想像して思わずくすりと笑ってしまった。  ふと何かが頭に触れる気配がして、まさか――? と勢いよく顔を上げるといつ戻ったのかコーヒーをふたつ俺が座るベンチに置き、申し訳なさそうな顔をした上島が立っていた。  がっかりとしてしまったのが顔に出ていたのだろう。 「――すみません、及川さんの頭に花びらがついちゃってたので……」  と、上島は手に持った花びらを見せながら眉をへにょりと下げた。  上島が悪いわけではない。  そんなわけないのにちょうど想像していたところだったから、楓君が……だなんて――。  自分からあの子の手を離したというのに今もまだこんなにも……。  もう涙も出ないだなんて大嘘だ。  こんなにこんなにも好きなのに……。忘れられるわけなんかない。  ぽろりと涙が零れた。  それを見た上島は慌てて俺の手を両手でぎゅっと握った。 「え?」 「及川さんっ俺、まだ転職したばっかで半人前ですが及川さんの事好きなんです! 大事にします! こんな……あなたの心に誰かが居る事は見ていたら分かります。だけど俺なら好きな人を悲しませたりなんかしません! だから、俺にしませんか? 結婚を前提に俺と付き合って下さいっ!」 「なに……、何を言って――」 「俺、本気です! あなたの人柄に惚れました!」  思ってもみなかった突然の告白。  びっくりはしたがドキドキとはしない。  俺のドキドキはどうやらもうあの子限定のものらしい――。  本当は分かっているんだ。父さんの事や会社の事を考えたらこんな俺の事を好きだと言ってくれるこの人と結婚した方がいいって。六歳下の、俺と一緒に居ても周りから奇異な目で見られる事のない人……。  ――――だけど、だけど俺は……。  返事をしなきゃと口を開きかけたところでパシン! と上島の手が叩かれて俺の両手は解放された。 「この人は俺のだから。勝手にくどいてんじゃねーよ」 「――――かえで……君?」  震える声でその名を呼ぶ。  忘れようと努力したけど、忘れる事ができなかった愛しい人。  あの日の事を何度も何度も夢に見た。  あの選択は間違いだったと、何があってもあの手を離してはいけなかったんだと、毎日後悔ばかりしていた。  八年の時を経て俺の前に立つ楓君は、小さくて可愛かった頃の美貌はそのままに身長は伸び細いながらも逞しくα然と成長していた。楓君の周りに花が咲いて、世界が明るくなっていく――――。 「薫さん、遅くなってすみません」  縁が切れてしまったはずの楓君が、俺の名前を呼んだ。  そしてあの優しい瞳で俺の事を……俺だけの事を見つめている。  抑えていた想いが一気に溢れ出た。  思わず楓君に手を伸ばしそうになるが、本当にそうしてもいいのか分からない。俺は一度楓君の事を捨てたんだ……。  そう思うのに、楓君はくすりと笑って両手を広げた。それを見た瞬間、俺はもう難しい事なんか考えられなくて、楓君の胸に飛び込んだ。  ぎゅっと抱きしめられる。  ああ、ああ、この温もりが欲しかったんだ。懐かしく香る柑橘類のような爽やかな香り。もっと嗅ぎたくてすんすんと鼻を鳴らす。  全身の細胞が、髪の毛一本に至るまで喜び震えている。  あ……っ!  嬉しさに俺の身体の奥で何かが弾けた。  ぶわりぶわりと広がっていく甘い香り。  とろりと後ろからも何かが溢れる。  知識だけはあった。これは三十六歳に至るまで一度もヒートらしいヒートがこなかった俺に初めて訪れたヒート。  制御できない感覚に不思議と恐怖はなく喜びだけが存在していた。  楓君が傍に居たから。  楓君が優しくそのフェロモンで俺の事を包んでくれたから。  段々濃くなる楓君のフェロモンに俺の発情も進んでいく。 「あ……、あ、あぁ……っ」  楓君が何かを言っていたが、脳が痺れてもう何も分からない。このαが欲しい。ただそれだけ。
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