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「ねぇ、やっぱりこっちのお皿にしようよ」
結婚祝いの話題に戻した陽多が、ティファニーブルーに彩られた皿を指さす。
「グレーもシックでかっこいいけど、こっちの青のほうがきれいだよ。食卓が華やかになりそうだし」
「いや、まぁ……それはそうかもしれないけど」
陽多の言いたいことはわかる。しかし、金額だ。皿一枚に五桁。百円ショップの食器を喜んで買うような父にこれを贈って、果たしてどんな顔をされるだろう。
あれこれ考え始めたら、永遠に答えが出ないような気がしてきた。ここは一つ腹をくくって、陽多のセンスにまかせてみるのもアリかもしれない。言うまでもなく、陽多のほうが目の肥えた男なのだ。陽多が「いい」と言ったものは、いいに決まっている。
「わかった。じゃあ、こっちで」
「いいの?」
「うん。陽多がこっちって言うなら、そうしたほうがいいと思うから」
すいません、と光は少し離れたショーケースの脇にひっそりと控えていた店員を呼んだ。大きな買い物はできないと陽多には言ったけれど、目的もなく貯め込んでいた貯金が実はある。父と沙知佳の幸せな門出を祝うためだ。使い道としては悪くない。
プレゼントですか、と妙齢の女性店員から尋ねられた。「両親の結婚祝いに」と光が答えると、店員は「さようでございますか。おめでとうございます」と微笑みかけてくれた。父と沙知佳のことを「両親」とはじめて口にすると、心にこそばゆさを感じた。まだ慣れなくて、気恥ずかしい。
「なんか、いいね」
丁寧に包装してくれている店員の慣れた手つきを見つめながら、隣で陽多がささやいた。
「僕の中に複雑な気持ちがあることは変わらないけど、やっぱり、愛し合った人同士が結ばれて、幸せになって、その姿を一番近くで見られるっていうのは、いいよ。すごくいい」
いい、というシンプルな言葉の中に、陽多の前向きであたたかな想いが十二分に込められていた。あれこれ説明するよりも、飾らない言葉のほうが伝わるものが大きくなることもある。
改めて、陽多のことを素直な男だと感じる。
芸能人と聞くと、傲慢で、尊大で、自分が世界の中心みたいに思っている人をつい思い浮かべてしまうけれど、少なくとも陽多はそうした人間ではなかった。俳優としては一流だが、こうして隣に並んでいると、光がいつも目にする大学生たちと全然変わらないことに気づく。
彼は俳優である前に、今時の若者なのだ。母親の再婚を目前に控えた二十歳の青年。あるいは、まだ少年の心を手放せないでいるような男。それも含めて、志波陽多の魅力だった。彼の備える人間力、一人の人間としての魅力が、彼を国民的俳優に育てたのだ。
無意識のうちに、陽多の横顔を眺めていた。普段、あまり他人には興味のない光だけれど、陽多には言葉ではうまく言い得ない、人を惹きつける力がある。
おもしろい男だ。こいつのことを、もっと知りたい。
気づけば陽多と同じことを考えていて、光はハッとして陽多から目を逸らした。それと同時に陽多のスマートフォンに着信が入る。画面を確認した陽多の表情が曇った。
「もしもし」
光から離れ、陽多は着信に応答した。「え、マジで?」「いえ、大丈夫です。行きます」「銀座。ティファニーのビルの前で拾ってもらえますか」。漏れ聞こえてくる陽多の言葉から、仕事の話をしていることがわかる。
通話を終えて戻ってきた陽多の浮かない顔を見て、光は迷ったが、なんでもない風に尋ねた。
「急用?」
「うん。今日は一日オフにしてってお願いしておいたのに」
声まで沈んでいた陽多だったが、すぐに笑顔を作ってみせる。
「ごめん、光くん。本当はもう少し、いろいろ話したかったんだけど」
「仕事なのか、これから」
「うん。行かなきゃ」
たくさんの人の心を癒やす陽多の笑顔の中に、光は一抹の寂しさを見た。この場を離れるのが寂しい。食事の時には神秘的な輝きを映していた漆黒の瞳も、今はその黒が翳りの色に見えてならない。
「がんばれよ」
寄り添うように、光は陽多の背をポンとたたいた。
「応援してる」
「ありがとう。がんばるね」
「また今度、ゆっくり話そう。おまえの都合のいい時に声かけて。俺は基本、暇だから」
「休みの日も?」
「うん」
「友達と遊びに行ったりしないの?」
陽多にとっては純粋な疑問だったのだろうけれど、光の心にはグサリときた。
わざとらしく笑顔を作って、光は答えた。
「俺、友達いないから」
少し大げさだが、あながち間違いでもない回答だった。
社会人になってから、誰かと出歩く機会はめっきり減った。同じ英成大の図書館で働く人たちとの関係は良好だが、プライベートで会うほど仲のいい人はいない。学生時代にはそれなりの付き合いがあった友人とは、卒業後まもなく集まったきりで今は連絡を取っていない。
要するに、光には親友と呼べる存在がいないのだ。なにを差し置いてでも会いたいと思える人が。
陽多は一瞬両眉を上げて、やがて光の笑みを映したように表情を崩した。
「僕と一緒だ」
そう言った陽多の笑顔は、やはりどこか寂しげだった。
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