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1.
太陽を直接見てはいけない。観察する際は、日食グラスなどの遮光板を正しく使用すること。
小学生の頃、授業で部分日食を観察したことがあった。その時に教えてもらったこのルールが必ず守るべきものだということを、光は当時、身をもって体験した。先生の忠告を聞かず太陽を直視して、しばらく目が開けられなかったのだ。男子の大半が光と同じことをし、先生に叱られた。
だから今、光は懸命にうつむいていた。日食グラスを持っていないのに、目の前に太陽が迫っている。
顔を上げれば、目をやられる。それくらい強い輝きを、向かい側に座る人から感じていた。真夏の太陽みたいなその人が不思議そうに小首を傾げ、ひたすら下を向いている光をじっと見つめていることは雰囲気で察した。
父とテレビで映画を見た翌週の土曜日。光は父に連れられ、銀座の街を訪れた。
ランチタイムとあり、通りは人であふれ返っていた。ようやく残暑が和らいできた九月の末だということを忘れそうなくらい、暑い。行き交う人の熱気のせいで、否応なしに体温が上がった。
生まれも育ちも東京である光だが、昔から人混みが苦手だった。乗り物には強いのに、人の波にのまれるとたちまち酔う。指定された店にたどり着く頃にはぐったりして、早くも帰りたい気持ちになっていた。
立派な店構えが映える、老舗の料亭だった。「志波」という名前で予約が入っているはずだ、と暖簾をくぐった父が和装の仲居に告げると、四人で食事をするにはあまりにも広い、店の一番奥の座敷に案内された。
通された先にはすでに、今日の会食の相手である志波母子――沙知佳と陽多が座椅子にゆったりと腰を落ち着けていた。佐竹父子の到着を待ちわびていたようで、仲居が引き戸を開けた瞬間、「あぁ、来た来た!」とよく通る陽多の声が嬉しそうに弾けた。
目に飛び込んできた二人の姿に、光は瞬く間に絶句した。
向かって右側、奥の席に座る女性、志波沙知佳は、想像以上の美人だった。父からきれいな人だと聞かされてはいたけれど、きれいというより、品がある。座っているだけで凛としていて、喩えるなら百合の花がぴったりだと思った。百合らしく、彼女は白いブラウスを着ている。
そして、もう一人。
彼女の手前に座る青年、志波陽多に視線を移すと、全身の毛穴が一斉に開いた。ただでさえ上がっていた体温が一気に階段を駆け上る。
長すぎず短すぎず、つややかで癖のない髪と、はっきりと大きなふたえの目は、冴え冴えとした漆黒だった。満天の星空のようにキラキラときらめき、宇宙の神秘さえ感じさせる力強い眼差しは、じっと見つめていると吸い込まれてしまいそうだ。
開いた毛穴から噴き出した汗が、アンダーシャツを容赦なく湿らせていく。
誰かに会い、言葉を失うという経験をしたのははじめてのことだった。
テレビの中で見ていた人がすぐ目の前にいることに対する興奮はもとより、彼のまとう独特のオーラに圧倒されている。赤でもなく、ゴールドでもない、けれどきちんと自己を主張する色。これまで見たことのない鮮やかな色彩を見事に着こなす彼の存在に、あっという間に目が眩んだ。
母親と同じく、陽多も白いノーカラーシャツに身を包んでいた。これから家族になる人とのはじめての会見の場にふさわしい服装を、と彼なりに考えてきたのだろう。もちろん光もそれらしく白いボタンダウンシャツを選んだけれど、陽多の着ているシャツとの仕立ての差が歴然としていて、こんなことならいっそスーツで来るべきだったと猛烈に後悔した。相手が売れっ子俳優であるという事実を軽く考えすぎていた。
「いやぁ、申し訳ない。お待たせしてしまったかな」
父は頭を掻きながら、沙知佳の向かい側に座った。「いいえ、全然」と落ちつきのある声で応じたのは沙知佳だ。
「私たちも今来たところよ。ね、陽多?」
うん、と陽多は朗らかに笑ってうなずいた。たったそれだけの、けれどずば抜けてかっこよく見えたその仕草に、光の心臓が音を立てて跳ねた。
「それに、まだ約束の五分前だから。誰も遅刻してないですよ、お父さん」
お父さん、と陽多は平然と言ってのけた。父もまんざらではなさそうで、照れ笑いしながらまた頭を掻いた。
「ほら、光。早く座りなさい」
敷居を跨いだところで呆然と立ち尽くしていた光を、父は緩みっぱなしの頬をして自分の隣に手招きした。
ろくに返事もできないまま、光はふらふらと席に着く。陽多との距離が近づくと、放たれるオーラをより強く感じてドキドキした。
腹に力を入れて顔を上げる。
すぐ目の前に、あの志波陽多がいる。先週父と見た映画に出ていた、あの。
まっすぐ交わった視線を、光はすさまじい速さで逸らした。陽多は気にする様子もなく、にっこりと光に微笑みかけた。
「はじめまして。志波陽多です」
テレビから聞こえてくる声とまったく同じ声で、陽多はさわやかに名乗った。顔だけじゃなく、声までいい。色気がある、とでも言おうか。「佐竹光です」とうつむいたまま小さく名乗った光の声は、色気のかけらもないどころか、情けないほど震えていた。
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