最終章 これからもきみと生きていく

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 翌朝になっても熱が下がらず、光は仕事を休んで寝込むことになった。ベッドから降り立つこともままならない光のことが心配で、陽多はそばを離れることができなかった。 「待っててね。もうすぐ朝ごはんできるから」 「食欲ない」 「ダメだよ。少しでいいから食べないと」 「あとで食べるからその辺に置いといて」  光は口もとを掛け布団で覆った。くぐもった咳の音が聞こえてくる。 「俺のことはいいから」  昨日よりもずっとガラガラの声で光は言った。 「さっさとこの部屋から出ていけ」 「イヤだ」 「イヤじゃねぇよ。おまえにうつったらどうすんだ。責任取れねぇぞ、俺」 「絶対にイヤだ。時間になるまでここにいる」  今日も朝から撮影の予定が入っていた。穴をあけるわけにはいかないので行くしかないが、ギリギリまで光と一緒にいるつもりだ。  自分が光に無理をさせているのだと自覚していた。陽多はただこの家で寝起きし、食事をするだけだが、光は大学図書館での仕事をした上で家事までこなしてくれている。寒さに弱いのだと昨日言っていたし、任せきりにせず、もう少し気づかうべきだった。今頃反省しても遅い。 「できたぞ、陽多」  光の寝室に、渋い声が響いた。スーツにエプロンを着けた五十田が、盆に小ぶりの片手鍋と茶椀、それから薬の入った袋とペットボトルの水を載せて入ってきた。 「ありがとう、五十田さん」  陽多は立ち上がり、載っていた物を片づけておいたナイトテーブルを自分の部屋から持ってきて、光のベッドのすぐ脇に置いた。五十田はその上に盆を置くと、鼻から上だけを布団から出している光を見下ろし、これみよがしにため息をついた。 「なんでオレがきみの面倒まで見なくちゃならないんだ。オレは陽多のマネージャーなんだが」 「俺、頼んだ覚えないっすけど」 「いいの。母さんを呼ぶより、五十田さんに頼んだほうが早いもん」  陽多は光の言葉を遮るようにして言った。「オレは便利屋か」と五十田はなお文句を垂れた。 「なに作ったの?」  陽多は五十田を見上げて問う。五十田が鍋のふたを開けると、白い湯気とともに、炊きたてのごはんの甘いにおいが広がった。 「うわぁ、おいしそう!」 「さつまいも(がゆ)だ。さつまいもに含まれるカリウムには、熱を下げやすくする働きがある」  水分を吸ってふやけた白いごはんの間に、赤紫の皮を残した輪切りのさつまいもが顔を覗かせていた。ごま塩が振ってあり、見た目から食欲をそそる。 「さすが五十田さん! 物知り~」 「おまえは少し黙ってろ」  陽多をにらんだ五十田は、茶碗に半分ほど粥をすくい、「起きられるか?」と光に尋ねた。光は黙って起き上がり、足を降ろしてベッドの端に腰かけた。 「しんどそうだな」  茶碗と箸を光に手渡すと、五十田は片膝を立ててしゃがみ、光の赤らんだ顔を覗き込んだ。 「熱は高いのか」 「さっき計った時は三十八度二分でした」 「そうか。だが、薬は少しでも食べてから飲んだほうがいい。味もよくわからないだろうが、とりあえず腹に流し込め」 「すいません、わざわざ。いただきます」  光は素直に五十田の作ったさつまいも粥をすすった。無言で口をもぐもぐと動かしている光の額に五十田は手を当て、険しい表情を浮かべている。  二人の様子を(はた)から見ていて、無性に腹立たしくなった。言葉にしなくても互いを分かり合っている熟年夫婦のように見えてきて、嫉妬せずにはいられない。  わかりやすくむくれて、陽多は光の隣に腰かけた。 「ねぇ五十田さん、僕の分は?」 「そう言うと思って、用意しておいた」 「やった! 僕もここで食べていい?」 「バカを言うな。おまえは元気だろう。一階のテーブルで食え」 「やだ! 光くんと一緒がいい!」 「ダメだ」 「うるさい」  光が上ずった声で静かに二人の言い合いを制した。三口ほど食べただけで茶碗に残っている粥をサイドテーブルに戻し、薬を飲むと、再び布団に潜り込んだ。 「大丈夫、光くん?」  光は陽多の声を無視した。陽多と五十田に背を向け、布団で口もとを覆って咳をしている。 「行くぞ、陽多」  食事の用意と薬を載せた盆を持って立ち上がり、五十田は陽多に声をかけた。 「少し寝かせてやれ。ただの風邪だと言われたんだ。からだが休まれば、じきに症状も落ちつくだろう」  動こうとしない陽多を置き去りにして、五十田は廊下の階段を下りていった。陽多は心配な気持ちをその目に宿し、光の額の汗を指で拭った。 「早く仕事に行け」  丸い背中を陽多に向けたまま、光はぶっきらぼうに言った。 「俺のことはいいから」 「でも」 「ムカつくんだよ、おまえら見てると」  布団から顔を出し、光は虚ろな目をして陽多をにらんだ。 「仲よさそうにしてるおまえとあの人の声聞いてると、イライラしてたまんねぇ」  ハッとした。  光くんも、僕と同じ気持ち? 五十田さんに、ヤキモチを焼いてる――?  途端に嬉しくなって、陽多は口もとをほころばせた。 「安心して。僕は光くん一筋だから」 「うっせぇよ。頭いてぇから話しかけんな」 「はぁ!?」  陽多が牙を剥きそうになると、光はゴホゴホと苦しそうに咳き込んで、頭まですっぽりと布団をかぶって逃げてしまった。かわいらしい照れ隠しに、陽多はふわりと笑みをこぼした。  お大事に、と声をかけて一階に下りると、五十田が陽多の分のさつまいも粥を準備してくれていた。  テーブルにつき、「いただきます」と手を合わせ、陽多は粥に口をつけた。ほんのりと甘い、優しい味のする粥だった。これを光のために作ったのかと思うと、嫉妬心が再びむくむくと湧き上がってくる。 「なぁ、陽多」  エプロンをはずし、いつも光が座る席に腰を下ろした五十田は、(いぶか)るような目をして陽多に尋ねた。 「何度でも()くが、あの男のどこがいいんだ?」 「全部」  即答した。五十田には、光に対して恋愛感情をいだいていると伝えてある。そして光も、陽多の気持ちにこたえてくれていると。  五十田は不機嫌そうに鼻を鳴らした。 「オレにはさっぱり理解できないんだがな。見た目に華があるわけでもないし、貧弱そうだし、これといった取り柄があるわけでもなさそうで……」 「そういうところも含めて、全部!」  五十田が光をどう評価しようと知ったことではない。光のそばにいると安心できる。光が笑いかけてくれると嬉しくなる。幸せな気持ちになれる。それ以外にどんな理由が必要だろう。  過ちもすべて受け止めてくれる、優しくてあたたかい心の持ち主だからこそ、陽多は光に惹かれたのだ。その優しさは、自分だけに向けてくれればなおいい。ひとり占めしていたい。  がっつくように粥をすすっていると、五十田がかすかにため息をついた。 「……なんでオレが、あの優男(やさおとこ)に負けなくちゃならん」 「え、なに?」  ボソボソと五十田がつぶやいたが、よく聞こえなかった。聞き直すと五十田はますます不機嫌になって、「なんでもない。早く食え」と陽多を急かした。
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