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 出された皿をすべてきれいにすると、光は静かに席を立った。トイレの前を素通りし、通路を行く仲居を捕まえ、「喫煙所はありますか」と()いた。  灰皿が置かれていたので、あの座敷でも吸えることはわかっていた。しかし、父は非喫煙者だ。沙知佳もきっと吸わないだろう。それくらいの気づかいは光にもできる。なにより、あの場に長くいたくなかった。  二人の相手は陽多にまかせ、仲居に案内された店の裏手へと出た。全面ガラス張りの手狭な喫煙スペースからは、柱で見切れているものの、丁寧に整えられた枯山水の庭がわずかに(おが)める。  黒いチノパンのポケットから電子タバコを取り出し、電源を入れる。しばらく待ってからすぅっと大きく吸い込み、濁った紫煙を吐き出すと、ようやく心拍が落ち着いてきた。  ガラスに背を預け、光は低い天井を仰いだ。  あんなにも屈託なく、よく笑う父の姿を見たのは、たぶん、はじめてだった。  母と死に別れたせいか、父親としての威厳を保ちたかったからなのか、父は光に対してどこまでも誠実に生きていた。仕事に精を出し、父親としての役目もきっちりと果たす。よくほめてもらい、たくさん叱ってもくれた。百点満点の親なんていないのだろうけれど、父は限りなくそれに近いと光はひそかに思っていた。自慢の父だ。  だから、父の幸せを願ってやるのは息子として当然のことだと、わかっているつもりだった。  今回の再婚の話も、父は相当の勇気を出して決めたのだろう。離婚ならともかく、光の母とは死別したのだ。父が母を想う気持ちが今でもちゃんとあることを光は知っているし、その上で沙知佳を愛していることを光がどう思うかと、まじめ一辺倒なあの父が考えないはずがない。  そんな父だからこそ、沙知佳とは幸せになってほしい。母と満足に過ごせなかった分の時間を、沙知佳と存分に楽しんでほしい。父親としてではなく、佐竹敏光(としみつ)という一人の男として。  心から光は、そう願っているはずだった。  なのに、どうしてだろう。胸の奥がモヤモヤしてたまらない。  沙知佳や陽多と無邪気に笑い合う父の目に、自分の姿が映っていないような気がした。このまま二度と映らなくなるのではないか。陽多だけが、彼の息子として認識されるようになるのではないか。食事中、ずっとそんなことばかりを考えていた。  漠然とした、けれど確かに存在する不安感が、高波になって襲いかかってくるようだった。  陽多がいれば、俺はいらない。そんな風に思ってしまうことを止められない。  兄弟姉妹のいる友人から聞かされたことがある。出来のいい兄と比べられて大変だとか、両親とも妹ばかりかわいがるとか。  きっと光も、近いうちにそうなるのだろう。父の目には陽多の活躍ばかりが映り、地味な図書館員である実の息子のことなんてさっぱり気に留めなくなる。太陽と同じ時間に昇る星は、どれだけ懸命に輝いても、太陽の光には勝てないのだ。  それが父の、陽多の家族になることが父の幸せなら、受け入れるしかない。  そうしてやることが、息子としての自分の役割ならば。  でも――。 「あ、いた」  喫煙所の扉が不意に開いた。陽多が「みっけ」と嬉しそうに言いながら入ってきて、光は無意識のうちにその姿をにらんだ。  陽多が現れた途端、白濁していた狭い空間が一気に明るさを取り戻した。彼を中心にキラキラと(ひかり)の粒が舞い、雲が切れ、空が晴れていくように、光の吐き出した紫煙を陽多は一瞬にして蹴散らしていく。 「探しちゃった。トイレかと思ったけど、いないんだもん」  嫌味なほどまぶしい笑顔を浮かべ、陽多は言った。カノジョか、と思わずツッコみそうになった。 「もうお開きですか」  電子タバコの電源を切り、握ったそれに目を落としたまま光は訊いた。「うん、もうそろそろ」と陽多は答えた。 「じゃあ、戻ります」 「待って」  ガラスから背を離した光の前に、陽多は出入り口を塞ぐように立った。こうして並ぶと、陽多のほうが五センチほど背が高いことに気づく。一八〇センチをわずかに切るくらいか。 「ありがとう。母さんたちの結婚、認めてくれて」  陽多はまじめな顔をして言った。  なぜ、礼を? 真意をとらえ損ねた光が眉間にしわを寄せると、陽多はふっと表情を柔らかくした。 「光くんに認めてもらえなかったら、母さん、敏光さんとの結婚はあきらめるつもりだったんだよ」  なるほど、そういうことか。「そりゃあ認めますよ」と光は電子タバコを右手の中で(もてあそ)びながらこたえた。 「沙知佳さんの気持ちはともかく、父がそうしたいって言うなら、俺は応援するだけです」 「本心では納得していなくても?」  光の表情が険しくなる。勝手に人の心を見透かして、いかにもその気になっている陽多のことをにらまずにはいられない。 「納得してますよ」 「してないでしょ」 「してる」 「じゃあなんでそんな不機嫌なの」  陽多が一歩、光に近づく。悲しげな視線が、上からそっと降り注いだ。
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