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 父と沙知佳がデートに行くというので、陽多とともに、料亭の前で幸せいっぱいな二人の後ろ姿を見送った。  午後一時三十分。相変わらず、休日の銀座は人でごった返している。話し声と、車のタイヤがアスファルトをこする音で騒々しい。真夏ほどではないが、陽射しも強い。  目の前を通り過ぎていった若い男三人組の香水のにおいがどぎつくて、光は思わず右手の甲で鼻から下を覆い隠した。  目と耳がいいことは誇れたが、鼻までよく利くのは正直厄介でしかなかった。父にはなんでもないにおいでも、光には耐えがたい悪臭に感じられた経験は何度もある。今のような不意打ちを食らうことも少なくないから、余計に光は外を出歩くことを嫌うようになったのだった。 「大丈夫?」  さっきと立場が逆転し、陽多が気づかうように光のやや丸まった背中を覗き込んだ。店の外へ出た時にかぶった黒いキャップは、白いオーバーサイズのシャツにライトグレーのクロップドパンツという彼の軽やかな出で立ちをたちまちきゅっと引き締めた。 「平気」と短く答えると、光はなんでもない顔をして陽多に言った。 「じゃあまたな。気をつけて帰れよ」 「待って、光くん」 「ん?」 「このあと、時間ある?」  意外な問いかけだった。光は小首を傾げ、「あるけど」と答える。 「よかったら、母さんたちの結婚祝い、買いに行かない?」 「結婚祝い」  考えてもみなかった。そういうものか。心で想うだけでなく、形として残るものを贈り、祝福する。それが結婚という、人生でそう何度もあるものではない幸せいっぱいのイベントなのだ。 「買うのは賛成だけど、俺、こういう時になにを贈ればいいのか全然わかんねぇや」 「僕も一緒だよ。だから、調べてきた」  へぇ、と光は陽多の手際の良さに舌を巻いた。食事のあとは二人で買い物、という流れは、陽多の中の今日の予定に最初から組み込まれていたようだ。 「一緒に食卓を囲むのが楽しくなるようにっていう願いを込めて、結婚記念日には食器を贈るのが人気みたい。ちょうどこの先にティファニーの本店があるから、見に行こうよ」  ティファニー。ハイブランドな店であることは知っているが、あまりにも縁がなく、いいとも悪いとも答えられない。それに、ブランドものとなると金額の心配もあった。陽多と違い、光は決して高給取りではない。 「俺、あんまり高い買い物はできないぞ?」 「わかってる。僕が出すから心配しなくていいよ」 「それじゃあ二人で買いに行く意味がないだろ」 「あるよ」  陽多は大まじめに言い切った。しかしすぐに、「ごめん」とキャップのつばをわずかに下げて謝った。 「結婚祝いを買いに行くっていうのは、口実。本当はもう少し、光くんと一緒にいたいだけ」  つばの下から覗かせた漆黒の瞳で、陽多は光をまっすぐに見つめ、笑った。 「光くんのこと、もっと知りたい」  陽多の冴えた黒とは違い、茶色がかった色素の薄い光の瞳がかすかに揺れた。  はじめて対面した二時間前と同じくらい、心臓がバクバクと派手に音を立てて鳴った。すぐ目の前にある陽多の整った顔がうっすらと赤らんでいて、自分だけでなく、陽多も緊張していることがわかる。  たぶんこの顔は、芝居じゃない。目が違う。映画の中で見た陽多と。  初対面で、まだ彼のことは全然知らないけれど、なんとなくそんな気がした。陽多は本心から、光との距離を縮めたいと思っている。これがもしも芝居だったら、もう誰も信じられない。 「……一緒にいるのは、別にいいよ。どうせ暇だし、俺は」  照れ隠しに失敗して、声が若干裏返った。 「けど、おまえのほうは大丈夫なの? 土曜の真っ昼間に出歩いて」  この人混みだ。志波陽多だとバレたら野次馬が群がり、交通に支障が出るかもしれない。熱狂的なファンの多いアイドルなどは、いつまでもあとをつけられて大変だという話も聞く。陽多の場合も、そうしたことがあるかもしれない。  光の心配をよそに、陽多はあっけらかんとした顔で「大丈夫」と答えた。 「みんな案外、自分のことで精いっぱいだから。他人の顔をジロジロ見ながら歩いている人なんて、パパラッチ狙いのカメラマンくらいだよ」  行こう、と光は陽多の背にそっと手を触れ、一瞬にして銀座の街に溶け込んだ。
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