序章

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序章

 映画を見よう、とスーツ姿で帰宅した父が突然そんなことを言い出して、食卓でのんびりテレビを見ていた佐竹(さたけ)(ひかる)は目を丸くした。 「映画館で?」 「いや、ここで」  光と父が二人で暮らす自宅である。なるほど、金曜の午後九時といえば自宅で映画だ。ジブリからハリウッド超大作まで、新旧問わず話題の作品を毎週放映してくれるテレビ局がある。  それはともかく、父が映画を見たがるなんて、真夏に雪が降るような珍事だった。 「なんだよ、急に映画なんて」  大まじめな父の顔をまじまじと見つめながら、光は食卓を離れ、キッチンへと向かった。「まぁ、ちょっとな」と、こちらも珍しく歯切れの悪い返事を父はよこした。どうも様子がおかしい気がするのは、きっと気のせいではないのだろう。なにかあったのだ。  自分よりも帰宅の遅かった父のために、光は食卓にせっせと夕飯を並べ始めた。早番の週は、光が炊事を担当する。  光が勤め先である大学図書館から帰宅したのは午後五時三十分。先に風呂を済ませてから、たっぷり一時間をかけて二人分の食事を作った。男の手料理なので繊細さにはやや欠けるが、彩りと栄養バランスには精いっぱい気を配るようにしている。父には長生きしてほしい。  今夜のメインディッシュはミラノ風ポークカツレツにした。父の好物だ。カリカリのサクサクを味わってほしくて、父の帰宅時間を見計らって揚げた。付け合わせにはサラダ菜ときゅうり、赤と黄色のミニトマトを添えた。ネクタイを緩めながら食卓を見た父が「お、うまそう」と言ってくれると、いつも素直に嬉しくなった。 「なんの映画?」  炊飯器から茶碗にごはんをよそいながら、父に尋ねる。光も父親譲りであまり映像作品には詳しくないが、父の口から聞かされた映画のタイトルには覚えがあった。アカデミー賞だか、カンヌ国際映画祭だったか、とにかく、海外の名だたる映画評論家たちから多くの支持を集め、栄誉ある賞を獲得して話題となった映画だ。未視聴だが、家族の崩壊と再生を描いた物語、というぼんやりとした内容だけは把握している。 「もう何年も前の作品だよな、それ」  最後に味噌汁の(うつわ)を二つ並べ、光はようやく食卓についた。父と向かい合わせに座り、「いただきます」と二人揃って唱和する。  父は味噌汁を一口すすり、満足げにうなずいてから口を開いた。 「四年前に公開された作品だそうだ」 「『だそうだ』?」  なぜ伝聞調なのだろう。光は父の言葉をくり返す。 「誰かに(すす)められたの?」 「うん、まぁ、そう」  父の目が泳いだ。うっすらと笑っていて、なんとなくそわそわしているように見える。やはり、今日の父はどこかヘンだ。  光は味噌汁の器を食卓に置き、その上に箸を並べて載せた。 「言ってよ、父さん」 「ん?」 「はぐらかすなよ。俺にはいつも『隠しごとをするな』って言うくせに」  まぁ、俺にだって父さんに言っていないことの一つや二つはあるけれど。なんてことを心の中だけでつぶやき、光は平気な顔で父に詰め寄る。  父は息子から目を()らし、同じように箸と味噌汁の器を食卓に置いた。 「なぁ、光」 「なに」 「父さんな、今、お付き合いしている人がいるんだ」  再び視線の交わった父の頬に、ほんのりと紅が()していた。  お付き合いしている人。つまり、カノジョ。  事情を飲み込むまで、三秒かかった。 「へぇ、そう」  こたえた声が震えていて、光はわけもわからず動揺した。声どころか、指先まで小刻みに震え始める。全身にじわりと汗がにじんだ。 「もしかして、最近ちょいちょい夕飯を外で済ませてきてたのは、そういうこと?」 「あぁ」 「デートだったんだ。飲み会じゃなかったのか」 「すまん。どうやっておまえに説明しようか、なかなか整理がつかなくて」  いかにも父らしい回答で、光は思わず笑ってしまった。数秒前に受けたショックは、申し訳なさの中に垣間見える父の幸せそうな表情に打ち消された。 「まぁ、いいんじゃない。母さんが死んで、もう十八年も経つんだし」  光が五歳になったばかりの頃だった。父がかつて寄り添った光の母は、三十一歳という若さで呆気(あっけ)なくこの世を去った。悪性リンパ腫で、発見時にはすでに回復の見込みがなかったらしい。 「それでな、光」 「その人と再婚したい、って話?」  やけに改まった態度を見れば、そういう展開になるだろうことは察しがついた。 「いいと思うよ。おめでとう」 「あ、ありがとう。案外、あっさり認めてくれるんだな」 「そりゃあ驚いたけどさ。でも、俺ももう自立してるし、あとは父さんたちの問題だろ」 「光」 「もう十分だよ、父さん」  話しているうちにすっかり落ちついて、光はいつもの調子で父に微笑みかけた。 「母さんが死んでから、父さんは十分がんばった。父親として、俺のために精いっぱいがんばってくれた。おかげで俺はなんとか社会人になれた。だから、これから先の人生は、父さんの好きなように生きればいい。好きな人がいて、その人と死ぬまで一緒にいたいなら、そうすればいい」  父さんが幸せなら、俺も嬉しい。そう素直に伝えたら、父の目尻に涙の粒が浮かんだ。 「おれを、恨んだりしないか」 「なんで? 母さんのことで、って意味?」  父はかすかにうなずいた。光は声を立てて短く笑った。 「俺は完璧主義者じゃないし、理想主義者でもないからなぁ。父さんが愛したのは母さん一人だけじゃなきゃ、なんてことは思わないよ。不倫の末の、とかだったら怒るけど、違うんだろ?」 「当たり前だ! 純玲(すみれ)が生きている間は、純玲だけを愛してた」 「だったらいいじゃん。胸張って結婚しろよ。母さんだって、今を生きる父さんの幸せを願えないほど器の小さい人じゃないと思うし」  そうか、そうだよな。父はそうつぶやいて、潤んだ瞳を手の甲で豪快に拭った。 「ありがとう、光。新しい母さんのこと、よろしく頼むな」 「やめろよ。今さら母親なんて言われても困るから。父さんの新しい奥さん、くらいの距離感でいさせて」 「あぁ……まぁ、そうだよな。おまえももう二十三だもんな」  うん、とこたえながら、光は箸を握り直した。茶碗の上にカツを一切れ載せ、口に運ぶ。うまい。(ころも)もいい感じにサクサクしている。我ながら上出来だ。  光に(なら)い、父もカツを頬張った。「んー、んまい!」と口をいっぱいにしたまま言う。「食いながらしゃべるなよ」と光が言うと、男二人の食卓がささやかな笑いに包まれ、明るくなった。 「ところで、その恋人さんの名前は?」 「志波(しば)沙知佳(さちか)さんっていってな。おれより五つ下の四十八歳」 「シバ? どういう字?」 「『(こころざ)』す『(なみ)』と書いて『志波』。かっこいいだろ。おれと結婚して佐竹姓になるのがもったいないよな」 「本当だな。どんな人? きれい?」 「あぁ、美人だよ。それで、さ」  また父が口ごもった。「なんだよ」と光は父をにらんだ。 「さっちゃんにも、息子さんが一人いるんだ」  父がくだんの恋人を『さっちゃん』と呼んだことは、彼女にも子どもがいるという情報によって見事に上書きされた。つまるところ、二人は互いにシングルファーザーとシングルマザーで、子連れ再婚ということになるわけだ。 「息子さん、いくつなの」 「七月で二十歳(はたち)になったそうだ」 「じゃあ、俺に弟ができるわけか」  義理の弟。黄色いミニトマトを口に放り込みながら、光は淡々と事実を述べた。  兄弟姉妹にあこがれをいだく幼い頃ならともかく、今さら兄弟ができたところで嬉しくもなんともない。二人とも成人しているのだし、問題になるのは相続や親の介護に関することくらいだろう。戸籍上新しい母になる志波沙知佳という女性を含め、彼女の息子とやらとも仲違(なかたが)いしない程度の関係をうまく保っておけばいい。年に一度、親戚の集まりで顔を合わせるくらいで問題なさそうだな、と光は父から告げられた再婚相手側の事情をそれほど重く受け止めなかった。  ただ、どんな息子なのかは気になる。ヤンチャが過ぎて少年院に、なんてヤツだったらさすがに厄介だと思った。 「父さんはもう会ったことあるの? 志波さんの息子さんと」 「直接はない。ただ、どんな子なのか知ってはいる。それはおまえも同じだ」 「は?」  おまえも同じだって? 意味がわからず、光はにらむように父を見た。父はテーブルの端に寄せてあった今日の朝刊を手に取り、テレビ欄を開いて光に見せるように置いた。  父の右の人差し指が、午後九時から一緒に見ようと誘われた映画のタイトルをトントンとたたいた。 「これに、出てる」 「え?」  やはり意味がわからなかった。会話の流れが一連のものではなく、無理やり切り貼りしてつなげたもののように感じる。 「いや、誰が?」 「だから、おまえの弟になる子が」  ふぅん、と曖昧に相づちを打ってから、一秒ほど間を置いて、光はガタンと椅子を鳴らしてテーブルに身を乗り出した。 「はぁ⁉」 「ほら、ここ」  父の指が、出演者覧の上に移動する。()し示されたのは、三番目にある名前だった。 「うそだろ」  志波(よう)()。  芸能界の事情に(うと)い光でもその名と顔を知っている、演技派でイケメンの若手人気俳優だ。 「さっちゃんな、陽多くんのお母さんなんだよ」  にわかには信じられず、光は食卓の上で頭をかかえた。  そんなバカな。  あの志波陽多が、まもなく義弟(おとうと)になるなんて。
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