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水を汲もうと外に出ると、扉にパンの入った籠がかけられていた。重いと思ったら、黒い石の板も入っている。ここの墓石を手掛けた石工の末裔、幼馴染のノットが来たのだろう。この粘板岩は昔、彼が自宅の資材庫から持って来た屋根材の一種だ。蝋石で擦れば字が書けて、指や布で消せるので、ルーセルから字を習うのに重宝していた。書置きにも丁度いい。籠から出した石板の上で、白い文字が月光を弾いた。
――夜は危ない。パン食べて寝ろ。
苦笑が漏れた。ノットは日頃から、島主が配給するパンや日用品を届けてくれている。なのに私が顔を見せないので、昼夜逆転の生活を悟ったのだろう。
月のある屋外はランプも不要なくらい明るい。新しい墓地と違って、土を掘り返す獣も出ないのに、心配しすぎだ。早く寝て、ちゃんと日中に起きろというのが真意かもしれない。
寝ろと言われても無理だ。仕事もある。水汲みを済ませてパンは食べたが、床にはつかず、道具を取って墓地へ出た。仄白い光が草花の彩りを失わせ、一面を灰色の濃淡に変えている。
最初にシェルムさんのお墓の枝葉と砂を払い、拭き清めた。一心に。しかし触れると指先がざらつく。何度も拭き直しては確かめ、手の感覚が疑わしくなったところで、やめた。誰のお墓を手入れしても、剥がせない薄膜があるかのようだった。それで気が咎め、墓守の墓の方へは近づけなかった。
泉を半周して居住区に戻り、家の裏手にあたる畑を覗くと、鵞鳥たちが薪小屋の前で寄り添い、眠っていた。雑草がないのは、彼らの変わらない働きの証。墓掃除一つ満足にできていない私とは雲泥の差だ。キャベツまで啄んだのを責められない。眠りを妨げないようにその場を離れ、家に戻った。
室内の暗さに目を慣らし、ランプを手に蝋石を探す。最近使っていなかったそれは、もっと使う機会のない羽根ペンやインクと共に、ルーセルの机の引き出しにあった。石板の忠告を「ありがとう」と書き換え、籠に入れて外にかける。扉を閉める間際、東の楡の梢に黄金色の輝きが見えた。
踵を返し、軋む椅子に腰かけて机に向かう。隣の巨大な棚を埋め尽くす羊皮紙の巻物から、鼻の奥に沈むような獣のにおいがする。過去に墓守が聞き取り書き残してきた、この地に眠る死者の記録。ここ数日、日の出からはこれを読み返している。羊皮紙は燃えにくいというものの、火を近づけるのは怖い。明るいうちが読みどきだ。
第三代島主、その兄弟、側近と辿り、乳母の記録にまで至る。過去に一度は読んだ内容。しかしすでに、側近の名前が怪しくなっている。こんな有様で、「子ども部屋」の守り人が務まるだろうか。
……なぜルーセルがいないだけで、何をしても不安なのだろう。彼は私にとっての何で、彼の死は、私から何を奪ったのだろう。
分からない。ただ心細い。死者は遠い存在ではないなんて嘘だ。姿が見えない、声が聞こえない、それだけで充分遠いのだ。
たまらなくなって机を離れ、日の当たるベッドに潜り込んだ。良い夢を、と自分に呟く。それからルーセルに――どうか良い夢を見せてと、我儘な幼子さながらに、願った。
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