第三章

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第三章

「君が赤ん坊だった頃、乳母をしてくれたノットのお母さんには、随分助けられたよ。僕ときたら、寝かしつけようと歌っただけで泣かれる始末で」 「ルーセルの歌、不安定というか、蛇使いの笛みたいに蛇を操れそうだものね」 「それができたら鵞鳥をお供にしてないよ。ああ、あのときその力が欲しかったなあ。夜中に君の泣き声で起きたら、そこの床を蛇が這ってて……もう心臓が止まるかと」    書き物の手を止めて身震いするルーセルに、私はベッドに腰かけたまま、話の続きを促した。鵞鳥もいない、私も役に立たない状況で、天敵と相対する彼の姿を想像し、笑ってしまう。 「咄嗟(とっさ)に上着を投げて被せた。幸い大人しい奴で、火ばさみで上着ごと掴んで外に出せたよ。そうだ、これを書いておかなきゃ。上着で蛇が隠れたとたん、君が泣き止んだんだ。蛇はまだ布の下にいて、僕は涙目だったのに。赤ん坊にとって、『見えない』は『存在しない』と同義なのかもね」 「布を被せられた蛇は、世界から消えたことになるの? そんなわけないじゃない」 「うん、成長の過程で気づいたんじゃないかな。記憶にない?」 「ないわ。ルーセル、高い羊皮紙に何書いてるのよ。自分の『記録』じゃなかったの?」    ルーセルは首肯し、羽根ペンで頬を掻いた。巻物で埋まった棚を見上げてから、悪戯っぽい微笑を浮かべ、こちらを振り返る。 「好き嫌いとか、僕の跡継ぎさんが知ってることの記述は、お任せするよ。僕は、僕しか知らない思い出を書く。僕がミラリアといかにして過ごしたかを知ってもらうんだ。そうすればここの守り人なら、蛇を追い払うより、彼女を大切にすることを優先してくれるはずだ。僕ならそうするだろう、とね」  全幅の信頼も露わな愛情も、約束された別れの先への気遣いも、悪い気はしなかった。  けれど、ああ、まただ。これは現実じゃない。  墓石の修繕に来たノットの父が、「ルーセルも跡継ぎができて安心だろう」と問いかけたことがある。返答はこうだった。「彼女の心惹かれる仕事が、ほかにあるかもしれないからね。跡を継ぐかどうかは将来、彼女自身に決めてもらうよ」――そう、ルーセルは私を「跡継ぎ」とは呼ばない。 「……良い夢を見せてと頼んだのに」    事前の流れを無視した私の言葉に、ルーセルは動じず、視線だけを送ってきた。そしてしばらくの後。とんと軽く書きかけの「死者の記録」を指で叩いて、口を開く。   「ミラリア、まだ僕を解放してはくれないんだね」 「ルーセルはそんな言い方しない!」  叫びが貫いた不可視の境界線で、パリンと世界が割れる音がした。
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