第四章

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第四章

「ミラリア、起きてるのか?」  ノットの声を聞き、暗い部屋で、ベッドに起き上がっている自分に気づいた。夢で聞いた音の名残が、耳の奥を漂っている。  ランプを消した覚えがないが、灯心が尽きたらしい。急激な覚醒にふらつきながらベッドを出て、闇を横切り、扉を開ける。    石の破片が散らばっていた。それを気まずそうに爪先で蹴るノットを見れば、事態の察しはつく。書置きを残そうとしていた彼が、私の叫び声に不意を突かれ、石板を取り落としたのだ。 「また昼間に寝てたな。どうしたんだよ。まだ日が暮れたばかりだし、もう一回寝直せ。朝、起こしに来てやる」 「眠れないよ、温かくないと。胸の奥が冷たくて……」  夢の中で揺り動かされた感情の制御を失ったまま、口を滑らせた。兄妹も同然の彼の前では、育て親にさえ言えないことも話せてしまう節がある。  ノットが困ったときの癖で、短い黒髪を掻き乱した。言葉を探しあぐねたと見え、ぐいと私の手を引いて、泉の方へ歩き出す。(もつ)れる足取りに、石板が細かく踏み砕かれた。    鵞鳥たちが(くつろ)ぐ泉のほとりに腰を下ろし、しばらく無言で水浴びの様子を眺めた。しかし一度揺らいだ心が落ち着く気配はない。   「夢見も悪いのか」  ノットが尋ねる。今日の調子では隠し切れない。私は自分の中に散乱した問題を一つ一つ(あらた)め、口に出した。  ルーセルに「おやすみ」を言えていない。罪悪感はある。でも言えば夢でさえ会えなくなりそうで怖い。起きていると、自分のやることなすことに不安が付き(まと)う。   「夢は大抵過去の再生なのに、どこかおかしい。でもそれに気づくまでは幸せなの。夢の中で息継ぎをして、苦しい現実をやっと生きてる。ノット、このまま夜に生きては駄目かな。日の温度を彼の温もり代わりに、昼は彼の幻を見て……それは悪いことだと思う?」  足のつかない、深く冷たい水の中を泳ぐような毎日なのだ。今の泳ぎ方なら、どうにか溺れずに進める。しかし一度均衡が崩れたら。   「……どうかな。それで心が休まるなら、ルーセルは『好きなだけ休め』って言うんじゃないか」 「ううん、『必要なだけ休め』って言うわ」    (うつむ)くと、バシンと背中を叩かれた。 「ところであの家鴨(あひる)だけど」 「痛……急に、何? あの子たち、鵞鳥よ」 「家鴨(あひる)だよ。農場で訊いてきな」 「そ、そうなの?」 「嘘だよ」  ぽかんとする私に、ノットは真面目(まじめ)腐った顔を向けていた。「家鴨、あまり見たことないよな」との問いに、私は無言で頷くしかない。 「家鴨をよく知らないから、否定しきれなかっただろ。『違う』って断言できるのは、相手を知り尽くしてるからだ」  ノットは私が「ルーセルはそんな言い方しない」と叫ぶのを聞いて、それこそ変な言い方だと思ったという。「そんなこと言わない」の方が自然だと。  私もそう言えるなら言いたかった。けれど否定すべきは、言葉選びだけだったのだ。私を跡継ぎと呼ばなかったように、彼は人を束縛しない。死者もまた縛るべきではないと考えるだろう。それでも、私が傷つく言い方は避けるはずだ。  ノットはその説明を聞いて、得意そうだった。 「ほら、おまえは彼を理解してる。夢よりもっと精度の高いルーセル像が、おまえの中にある。それと幻を見比べて、『違う』って判定を下すんだ。見えるけど不確かな夢なんか、必要ないじゃないか。見えなくたって確かな存在の方が、頼りになる。……そんなに寂しがるなよ。おまえの中のルーセルを消せるものはないんだから」  水辺の湿った風で額にはり付く前髪を、くしゃりとかき分けられた。ノットは言葉の効果を見極めるため、私の目を見たかったのだろう。  私は急に視界が晴れたような心地でいた。  赤ん坊にとって、見えないものは存在しないというルーセルの推論を思い出す。私は赤ん坊に戻っていた。死という覆いの下で、彼という存在を消失させていた。  しかしノットの言うとおり、自分の中には生前と変わらないほど鮮明なルーセルの姿がある。目に見えなくなっても、存在は永続する。それが分かると、溺れそうだった水の――ノットが寂しさだと言い当てたものの冷たさが、和らいだ。    確認の結果が良好だったようで、ノットはやれやれと立ち上がった。   「ルーセルの存在って大きかったんだな」  私が立つと、鵞鳥たちが泉を出て駆けてきた。二羽を従えた墓守の姿を回想する。彼が私の何だったのか、今は明確だった。   「彼は私の理想で、安らぎそのもの」  目を丸くしたノットはなぜか、喜色を露わにしていた。取り繕うように、鵞鳥の濡れた体を撫で回す。   「その二つを取り戻せば、生きる不安も眠れない心配もないな。帰るぞ。今から寝れば、朝起きられる」 「うん。でもその前に、彼のお墓に行ってくる」 「なら俺も行くよ」
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