ファーストチェス理論 

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右足を捻挫した里香は車を運転することも難しそうだったので、俺は里香の車を運転して彼女の家まで送った。 「まあ、とんだご迷惑をおかけして申し訳ございません。どうぞ、休んでいらして。」 彼女の母親は俺の腕をつかんで離さない。 そのうち彼女の父親も玄関まで出てきて、上がれと言う。 「すみません。じゃ少しだけ・・・」 と、シューズの紐をゆるめていると、彼女の祖父母までもが登場。 「おや?その靴は今日、入荷したばかりのナ〇キの新作ですな。」 祖父は、なんとスポーツXXXの会長だと言う。 父親は社長だ。 どうりで豪邸だと思った。 玄関だってヘタなビジネスホテルのロビーより立派だ。 何だか俺は狐にバカされているような不安を感じた。 朝の沢田先生との会話から、みるみる不可思議な世界に引き込まれてしまったが、妙に話が出来過ぎている。 まさか竜宮城に行った浦島太郎みたいに、後に、とんでもない悲劇が待ち構えているのではないか。 そう思いながら里香の家に入ると、広くて長い廊下を通り立派な食堂らしき空間へと招かれた。 「夕食は、まだでしょう?ありあわせのものしかありませんが里香といっしょに召し上がって下さいな。」 母親が、そう言って厨房へ消えると同時に、父親はワイングラスを持ち出し、祖父はブランディーやワインの瓶を数本抱えて来た。 「あの・・・俺・・・アルコールは・・・明日も仕事ですし・・・」 「まあ、そうおっしゃらずに。本当はイケる口でしょう?軽く、お付き合いください。車はお宅まで運ばせますから。ささ・・・初めは何がいいですかな?」 祖父は俺を腰かけさせ、隣に陣取ると、何かわからない酒を三つのグラスに注ぎ、向かいに陣取った父親と俺とに配ると、父親はグラスを掲げ 「では・・・今日の良き日に乾杯!」 と、俺に向かってグラスを差し出した。 祖父もグラスを掲げてニコニコしながら俺のグラスを待っている。 俺は、勢いに負け、グラスを持って乾杯してしまった。 「ありがとうございます。恐縮です。」 迷いながらグラスの中でトロリと鈍い光を放つ金色(こんじき)の酒の香りを嗅ぐと、今まで嗅いだことのない何とも言えない芳香がふわりと漂う。 父親はロックにもかかわらず、クイッと飲んで、たちまち恍惚の表情を浮かべる。 祖父は俺の目をまじまじと見つめ、 「さ、どうぞ。今日は、本当にありがとうございました。」 と言う。 そっと、唇に湿らせる。 美味い! 何だ・・・これは! 母親と使用人らしい女性が次々に料理を運んで来る。 「里香は知り合いの整骨院に行きましたので、戻って来るまで楽しく飲んでてくださいな。」 と母親が言う。 「あの子は甘やかして育ててしまったので。精神的に幼くて仕事が続かなかったんですわ。」 と、父親は俺に説明する。 「ワシは最初からイマドキの教師なんぞになることは反対だったんじゃ。とんでもないモンスターなクソ親どもの餌食(えじき)になるのは天気予報より明白に予測できとった。」 祖父は、息子である父親に向かってそう言った。 「まあ何事も経験です。里香には里香なりの期待や希望があったんだ。ただね。人間、育ちが違い過ぎると、お互いの心情まで理解することは難しいんですよ。そうは思いませんか?あ・・・そうだ・・・失礼ですが、あなたはどなたですか?」 「あはははは・・・はははは・・・」 俺は、可笑しくて笑い転げた。 はははははっ あっはっはっはっは・・・ 父親も祖父も、横にいた母親も祖母も、みんな大笑いした。 こんなに笑ったのは何年ぶりだろう? と思うくらい笑った。 ひとしきり笑い終えて、俺は水をもらってグビグビ飲んだ。 簡単に自己紹介し、里香とのいきさつを話した。 「まあ、てっきり里香のお友だちかと思いましたわ。ごめんなさいね。お若く見えるんですもの。」 と母親は恥ずかしそうに言った。 「体育の先生じゃなく、美術の先生とは・・・驚きました、あははは・・・」 と父親は、まだ笑いが収まらないらしかった。 祖父はいきなり 「どうですか?この際、里香と付き合ってみませんか?」 と言った。 それまで黙っていた祖母が急に 「これは神さまのお導きだと思います。」 などと笑顔で俺に畳みかけるように言った。 「ありがたいお話ですが、俺、42歳ですよ。」 俺はさり気なく辞退するつもりで、そう答えた。 「ちょうどいいじゃないか。僕は妻より13歳年上なんです。里香は29歳だろう?バッチリじゃないですか、塩崎先生。あははは・・・」 父親はまだ笑いが止まっていない。 「それとも何ですか、先生にはもう既に心に決めた方がおられるのですか?」 祖父はテーブルについた俺の手に手のひらを重ね、顔を寄せて聞いてきた。 「それともお母様に相談しないと何事も決められないマザコンですか?」 祖母はまた唐突に、そんなことを言う。 「ちょ・・・ちょっと待って下さい。里香さんがいらっしゃらないところで、こんな話をしても」 「それは違いますの。」 母親はキッパリと俺の話を遮った。 「里香は今、精神的に不安定なんです。不安定というより孤独なんです。孤独というより・・・何と言えばいいのかしら・・・この3月まで勤務していた中学校で担任を持っていたんですが、生徒さんのご家庭は様々で、すべての生徒さんの親御さんのご期待に沿えることは不可能に決まってるんですが、里香にはそのあたりの割り切りが難しかったんです。先輩の先生方にも愛想をつかされて、言ってみれば自分勝手に悪戦苦闘して疲れ果ててしまったんです。それでも何もせずに家でダラダラしているよりは、と、父親が無理矢理お店に連れ出してはみたものの。店員たちと仲良くやれる訳ありませんわ。誰だってイヤでしょう?社長の娘と対等に仕事なんてできません。里香は、何でも一生懸命に頑張ろうとするんです。周囲への気配り目配り心配りもできているとは思うんです。ただ、あんまり頑張り過ぎると周囲は逆に疲れてしまうということに気づいてないんです。今日だって、きっと先生とご一緒だったから張り切り過ぎて捻挫したに違いありませんわ。いつだって、頑張り過ぎてしくじるんです。だから、今、里香がいない間にこそ、先生にお願いしたいんです。あの子をそれとなく支えてやってほしいんです。別に特別な関係じゃなくていいんです。私は、母親として、あの子が心配で、不憫でならないんです。」 「何かい?それじゃ僕が里香を店に連れ出したのがよくないって、そう思っているんだな? だったらなぜ今まで、そう言わなかったんだ。今日、初めて出会ったばかりの塩崎先生に、そんな話を聞かせて、僕には何一つ、おまえの気持ちを語ってくれないじゃないか!」 父親は急に怒り出した。 「あなたは私の話に耳を傾けて下さらないからよ。いつだって私が話しかけても目も合わせて下さらない。」 「二人ともやめなさい!塩崎先生はお客様じゃないか。なぜ、先生の前で夫婦喧嘩しなきゃならんのだ。恥を知りなさい、恥を!」 祖父は喝を入れた。 「まあまあ、お見苦しい舞台裏をお見せしまして・・・さあ・・・どうぞ・・・よかったら召し上がって下さい。」 祖母は俺の目の前に、豪華な刺身の盛り合わせを置いた。 「いただきます!」 俺は腹がペコペコだったので、刺身を食った。 「あの、ご飯も、お願いできますか?」 もう、こうなったら遠慮なく食ってやろうと思う。 もともと食卓に並んでいたスモークサーモンのマリネや牛ステーキ、鶏の唐揚げ、サラダの他に、ご飯、味噌汁、つけもの、野菜の煮物、茶わん蒸しなどが運ばれてきた。 俺はどんどん食った。 どれもこれも美味い! ご飯を三膳お代わりした。 お味噌汁は四杯お代わりした。 みんなで食べる分くらいの分量を、俺はほぼ一人で食べ尽くした。 「あ~~~~食った食った~!」 俺は食卓に載っている皿をすべてカラにして、両腕を上げて体を伸ばしてから手を合わせ 「ごちそう様でした。」 と言った。
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