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豊平川に沿ったマラソンコースに着くと矢崎里香は、カモシカのように細く引き締まった脚を惜しげもなく見せて俺の前で微笑んでいた。
「初めに軽くストレッチしましょう!」
彼女のすることをギコチナク真似てみる。
「以前は私、市内の中学校で体育の教師をしていたんです。」
「えっ・・・?」
「おかしいでしょ・・・何だか疲れちゃったの・・・だから思い切って辞めちゃったんです。」
「そうなんですか。」
こういう時、気の利いた言葉が思いつかない俺は、ただひたすら矢崎里香のストレッチを真似ていた。
「塩崎先生、結構、関節柔らかいですね。」
「そうですか?」
「何かスポーツしてらしたんですか?」
「別に・・・ただ・・・休日はカメラ持って相当歩きます。石狩の方まで行ったり、藤野の奥とか八剣山とか、好きなんです。」
「好きって・・・景色が?」
「ええ。景色もいいし、いろいろな虫や植物を撮るのも好きです。」
「八剣山まで、まさか歩いて行くんですか?」
「近くまで自転車で行きます。」
矢崎里香はポカンと口を開けて、少し言葉に詰まったようだった。
俺は何か変なことを言っただろうか?
「塩崎先生。普段からそれだけ体を動かしていたら大丈夫です。じゃ、軽く走ってみましょうか?」
「はい。よろしくお願いいたします。」
「あの・・・私・・・コーチって訳じゃないんで・・・お互い敬語はやめませんか?」
「あ・・・はい・・・そうですね。」
不器用な俺は苦笑した。
あはは・・・と笑って矢崎里香は走り出した。
彼女の後について同じ歩幅で俺は走った。
緊張であたりの景色を見る余裕すらなかった。
「ああ、きれいな夕焼け・・・夕暮れの空って・・・毎日違って・・・毎日最高・・・」
彼女はそう言いながら歩幅を調整し俺の隣に並んで走り始めた。
たったそれだけのことに俺は妙にトキメいて、嬉しいのに不安になる。
「塩崎センセ・・・令・・・って名前・・・素敵ですね・・・さっきお店でサインしていただいた時・・・あ・・・令って顔してるな・・・って思ったんですよ・・・ふふふ・・・」
走りながら彼女は余裕で話しかけてくる。
俺には余裕がない。
体力的にというより、精神的にだ。
「令って お呼びしてもいいかしら?」
「あ・・・いいけど・・・」
「じゃ・・・私は里香で・・・」
「うん・・」
俺はいよいよ余裕がなくなって胸の底まで夕日色に染まり始める。
ダメだ。
彼女はまだ若い。
俺とはまるで釣り合わない。
クソッ・・・俺は何を考えているんだ。
「令・・・ついて来て・・・」
彼女はいきなりスピードを上げた。
夕暮れの涼しい風を切り、野性の鹿のようにピョンピョン駆けていく彼女の姿がたちまち遠くなる。
俺はハッと我に返り、彼女の後を追った。
それまでテニスコートやパークゴルフ場があった河川敷は、その辺りから急に狭くなり、川沿いに細いマラソンコースだけがどこまでも続いて見える。
本気で追いかけたら追いつけるだろうか?
そう思うくらい彼女との距離はどんどん開いていく。
今日、買ったばかりのマラソンに適したシューズとウェアに身を固めてはいるものの、今までほぼ運動していない生活を送って来た自分の錆びついた身体が心配である。
だが矢崎里香の姿は、既にアリのように小さく遠くなっている。
ええい!
俺は、とりあえずスピードを上げた。
歩幅を広げ、上半身を安定させ、力のすべてを無駄にしないよう、前へ前へと進む。
俺は目でスポーツを楽しむ時、アスリートの体型と姿勢に注目する。
美術が本業の俺にとって彼らの結果に、さほどの興味はない。
だがブレない美しさを持つアスリートの強靭なバネが最高の結果に結びつくことは知っている。
目で記憶してきた長距離走ランナーの美しいフォームを心に描きながら俺は走り始めた。
心の重さと体の重さを、周囲の雑草の中に少しづつ振り落としてゆく。
足が地面を二度蹴るタイミングで呼吸をする。
見てろ!
追いついてみせる。
若い彼女ほどバネはなくても、俺の方が脚は長いんだ。
俺は何もかも忘れて夕暮れの河川敷を颯爽と駆け抜けていた。
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