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爽快だった。
走る、という人間に与えられた能力を、なぜ何年も使わずに過ごして来たのだろうと後悔するくらい、走ることは楽しい。
俺は美しい夕空が織り成す七色の虹彩から宇宙のエネルギーを得て、どこまでもどこまでも走り続けた。
自分がこの大地に溶け込み、自然の大きな営みの一つとして風と共に走っているような感覚に陥る。
足の裏は、しっかりと大地を捉え、太ももは軽く天空に踊る。
心臓も肺も特別な苦痛を感じている様子はない。
今の時間に名前をつけるなら『走る時間』だ。
ああ、『時間』で思い出した。
今夜は午後8時までには、絶対、実家に着けないな。
まあいい、そんなことで自分の行動を制限してはいられない。
河川敷のマラソンコースは、次第に河川敷が狭くなって、ある地点から堤防の上へ自然に登り、堤防の上の道は遥か彼方の海の方まで続いている。
それにしても・・・
矢崎里香の姿は完全に見失った。
こんなに見晴らしのいい堤防で・・・
いや?何かおかしい。
堤防の行方は数キロ先まで見渡せる。
360度、大地と大空とが見渡せるというのに、動いているものは、俺と、風に揺らぐ雑草と、遠くに舞う数羽のカモメだけ。
俺は不審に思いながらも、どんどん走った。
もしかすると俺が見えない先で堤防が終わり、その先で彼女は待っているかもしれない。
走って行く先の日本海側に夕日は落ちようとしている。
『暗い道を走ることもあるでしょう』と先程、矢崎里香に勧められて購入した小さくても高性能のヘッドライトは、腰に付けた骨盤サポート機能を併せ持つ腰ベルトに入れてある。
いろいろな最先端技術でしっかりサポートされている安心感をバネに、俺は見失った里香の姿を追うように、堤防の上を走り続けた。
やがて日は沈み、辺りはたちまち暗さを増してゆく。
と・・・その時だった。
「令・・・やっと来てくれたのね」
足元から声が聞こえた。
堤防の川に面した草むらに里香は座り込んでいた。
「あ・・・里香・・・」
俺は思わず、そう呼び捨てにした。
「調子に乗って走り過ぎて・・・やっちゃったみたい・・・」
里香は足首を押さえて苦笑している。
「どうした?」
「思いっきり足首ひねっちゃった・・・捻挫かな」
「よかった・・・俺がいっしょの時で・・・かなり待った?」
「5分くらいよ」
「そっか・・・ちょうど俺が堤防に上がった頃だ・・・だから里香の姿、見えなかったんだ。さて、暗くなる。立てるか?」
「うん・・痛っ・・・」
俺は里香を支えて立ち上がらせた。
里香は泣きそうな顔をしていた。
俺は彼女に背を向けてしゃがんだ。
「おんぶして帰ろう」
「え・・でも・・・」
「早く。暗くなる前に少しでも戻ろう。」
里香は素直に俺におんぶされた。
思ったより里香の体は軽かった。
カメラの道具一式を背負って山に登ることは日常茶飯事だったので、重さ的には、さほどの違いを感じなかった。
だが柔らかかった。
熱かった。
里香の柔らかな熱い肌と肉が俺の手に食い込む。
里香の甘い吐息が俺の首筋をかすめる。
里香の胸のふくらみが俺の背中に密着している。
長い間、漲ったことのないバラ色の熱情が俺の背骨の奥からチラチラと様子をうかがっている。
噴出していいものかどうか、怯えている。
あまりにも出番のなかった熱情は、すっかりイジケテしまって、恐る恐る理性に伺いを立てている。
「ごめんなさい。」
里香は、そう言うと思いがけず泣き出した。
俺の肩に顔を押し付けて泣いている。
「おい泣くな。買ったばかりの新品のウェアが汚れるじゃないか。」
俺は笑いながら、そう言って両腕に力を籠め彼女の体を揺らした。
きゃーっ!
彼女は子どもみたいに楽しそうな悲鳴を上げた。
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