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 左手の薬指に輪が滑っていく。透明の石が光って行き止まる。私は石にキスをして、彼を見る。溢れてくる涙を隠すこともなく流す。  涙の理由は、私しか知らない。こんな悲しみがこの人生でやって来て、自分がこんな苦しみに耐えられるとは思っていなかった。私の強さはいつ育まれていたのだろうか。愛することは、人を強くするのだろうか。目の前で跪くLouisが歪んで見える。下瞼から滴が落ちれば、彼の顔は歪みなく映る。  Denisがふざけて、レストランで私に見せた跪くポーズの映像が蘇る。なぜ跪いたのかさえ覚えていない。ただ二人で大笑いした感情と、彼の細長い足の映像だけが残っている。彼は決して、プロポーズなどしない。  喜びの涙と思われるままに時間が進んでいく。Louisは立ち上がって、私の両頬を大きな手で包み、喜びの涙にキスをする。私は抵抗せずに寒々しい涙を差し出す。  Louisは今年48になる。この先一人で老後を過ごすのが不安だからパートナーを探していた。年老いて一人でいる辛さを薄めるために、傍らに女が必要なのだ。それなのに私を愛していると誤認している。本当の愛を知っているのだろうか。私は愛されている。  愛する人がいれば、傍らに存在していなくても幸せなのだろうか。心が愛で満たされていれば、物理的に存在しなくても満足できるのだろうか。体を持っている限り、愛するものに触れたいと思う。皮膚でも吐息でも、愛するものを感じたいと願う。これが体を持つものの弱さだろう。  私は愛のない詐欺師だ。愛もなく結婚する。私に愛がないわけじゃない。私の愛は、Denisのものである。Louisのものではないだけだ。Louisとの関係に愛がなくても、生活は続く。彼が嫌いではない。彼のために、料理も掃除も洗濯もできる。Sexもできる。本当の愛を与えられないだけだ。彼がそのことに気づいているのかはわからない。私の微笑みに彼は騙されているということだろうか。私は彼を微笑みで騙しているということだろうか。                 * * *  二年前にオランダにやって来た。ヨーロッパで暮らすことが長年の夢だった。これは嘘ではない。オランダと日本には長い貿易の歴史があるせいか、比較的ビザが取得しやすい。個人事業主のビザを取り、二年間オランダにいられるようになった。ヨーロッパの中でもビザが一番取りやすかったからオランダに来たけれど、Denisがここに来た理由の一端でないとは断言できない。彼と同じ朝を迎え、夜を過ごすことだけでも私には幸せに感じられる。同じ時間の中に存在できている。  Denisとは五年前に日本で出会った。桜の季節だった。考古学者の彼は、出版した本のプロモーションで日本を訪れた。私はひと月の間、通訳として様々な会合に同行した。  Denisはヨーロッパでは既に有名な作家だったのに、どういうわけかフリーの通訳である私を探し当てて連絡を取ってきた。日本の大使館にも伝手があるのだから、もっと一流の通訳をつけることができるのに、なぜか私にコンタクトしてきた。不思議でならなかったが、彼の求めているものは、通訳の技術ではないからだと説明された。解せなかったが、仕事を断る理由もなく、私は快く引き受けた。
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