56

1/1
6人が本棚に入れています
本棚に追加
/56ページ

56

「ごめんなさい。私はもうこの生活を続けることはできない。ごめんなさい。」 「Dennisが僕たちの前に現れた時、何かが変わったんだ。うまく表現できないけど、軌道が変わったような、変な気がしたんだ。」 私は何と相槌を打つべきか考えていたが、Louisは話し続けた。 「そういうものなんだろう、人生って、ただ流れていくんだよ。運命に翻弄されるようだけど・・ただ流れているだけなんだ。Dennisが現れて、なぜ自分が動揺したのかわからなかったけど、きっと自分の人生の流れが変わることに気づいて慌てたんだろう。あの後Annaに会いに行って、自分の居場所はここかもしれないと思ったんだ。僕から家を出たのに、彼女は我が儘な僕をまた受け入れてくれたよ。君には悪いと思いながら・・居心地がよかったんだ。だから・・・」 「いいのよ。私にあなたを責めることなんてできない。」  Louisは席を立って私の脇にくると、覆い被さるように、座ったままの私を抱きしめた。 「楽しかったよ。後悔はしていない。」  彼を傷つけ続けてきた私を抱きしめてくれる。彼も私に後ろめたい気持ちで元妻と会っていたのだろう。勝ち負けも損得もないけれど、私たちはお互いを傷つけ、疚しさに気を咎めていた。今その傷を広げて、夫婦でも友達でも恋人でもない愛情を感じていた。彼の愛に初めて触れた。深く大きく温かい。私は心も体もすべてで彼の愛を感じ、受け取り、包まれた。そこには善悪も常識も規則も罪も称賛も罰もなく、穏やかな暖かい静けさだけがあった。Louisに向かって感謝が溢れた。こんな状況にあって、私は幸せだった。  その夜はLouisの傍らで彼の手を握って眠った。彼と出会って初めて経験する幸せだった。彼に出会えたことに感謝した。彼に感謝した。ありがとう。明日の朝目覚めたら、私は次の流れに入って行く。Louisと離れて違う流れに乗って行く。Dennisに向かって流れて行く。Dennisと同じ流れに乗って生きていく。それがどこに辿り着くのか、Dennisとどこまで一緒に流れて行くのかわからない。私は信じて流れに身を任せる。それだけ。  滑らかに肩から足首に流れ落ちるレースの生地には、細かいシルクの刺繍や小さな真珠が散りばめられている。単調なデザインのドレスは美しい布を纏っているだけのようだ。長い髪を束ねるか、そのままにするか悩んだが、Dennisの好きな自然なアップスタイルにした。彼には光沢のない麻の白いスーツを着てもらった。  イラクに発つ前に、二人きりでブルージェの小さな教会に来た。彼が生まれて洗礼を受けた教会だ。洗礼を受けていてもクリスチャンの自覚のないDennisが、私をここに連れてきた。私を見つめる彼の瞳からは光が零れる。彼は私の愛である。私は愛である。  神父様の誓いの言葉を復唱する。病める時も健やかなる時も死がふたりを分かつまで。いえ、この体に生まれる前から、そしてこの肉体が朽ちた後も、私はDennisを愛している。  こうなるように決められていた。私がどう考えようと、どう行動しようと、どんなに抗おうと、私はここに来たのだ。自分が努力して勝ち取ったり、道を切り開いたりしたような錯覚に長い間陥っていた。自由意志があるとすれば、考えるか考えないかだけだ。私に与えられた自由は、思考に操られるか、思考を捨てるかを選ぶ自由だけである。すべては綿密に計画されている。それは私のできる技ではない。すべての瞬間が完璧に仕組まれている。私はそれに気づくことすらできない。先のことはもちろん、今起きていることも、過去ですら私にはその意味がわからない。私が死ぬときに振り返って初めて、私の来た道がすべて巧妙に織られた絨毯の美しい柄になっていることがわかるのだろう。私の計画で人生は進んではいない。人生を嘆くのは人生を楽しむためだ。人生に良いことも悪いこともないのだから。私は生きていく。体が終わるまで人生を心から眺めていくだろう。  夕陽が美しい。Dennisの腕が私の腰にまわり、私は自分の手を重ねる。二人で同じ夕陽を眺める。星が現れ、また陽が差してくる。 完
/56ページ

最初のコメントを投稿しよう!