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予約してくれたホテルは駅に直結していて便利だった。大きな硝子窓は絵葉書のように京都タワーを切り取り、京都の街の向こうに五山の稜線も眺められる。私たちはそれぞれの部屋に荷物を置き、夕食のために街に出掛けた。
Denisが魚料理を食べたいというので、フロントで勧められた「あおやぎ」という日本料理屋に向かった。ホテルから近かったので歩いていくことにした。東洞院通りを真っ直ぐに歩いた。飴屋町、笹屋町、廿人講町、花屋町通り、六条通りを渡り、五条烏丸近くに店をみつけた。私には日本のよくある街並みだが彼には異国の心躍る景色なのだろう。博学な46歳の老教授であり、衝動的にやりたいことをやる少年であり、どんな瞬間も楽しもうとする自由人の横顔は好奇心に輝いていた。
「漢字や日本語の文字が町中に溢れているね。」
「え?標識?」
「うん、標識に看板に電柱に道路に・・・いっぱいあるよ。」
「そうね、そう言われれば。」
言われるまで気づかなかったが、道には文字が氾濫している。ヨーロッパの道を歩いていてもこんなにアルファベットに囲まれる感覚はない。日本が新鮮に見える。
日本料理屋はコンクリートの打ちっ放しの壁を、黒い木の出格子が数学的に整列して覆っている。日本建築の美しさをモダンに取り入れた外壁の先に、小さな玄関が現れた。引き戸の左上の壁に和紙の行灯が掛かり、「あおやぎ」と柔らかなひらがなの文字が甘い明かりに暖かそうに浮かんでいる。
引き戸を開けると、一枚板のカウンターが長く横たわり十席だけしかない店内にすでに六人の客が席を埋めていた。店内の明かりがほのかに優しく、カウンターの中の二人の板前の清潔な整然とした静かな佇まいに、私はすぐに心地よさを感じた。Denisの好奇心に輝く顔も満足そうだった。
席に着き、板前さんがくれるおしぼりで手を拭きながら、Denisに何が食べたいか聞いた。
「ワインじゃなくて日本酒にしようかな。」
「大丈夫?飲んだことあるの?」
「ないから飲んでみたいんだよ。」
「了解。じゃあ日本酒と・・・冷やでいいわね。」
「うん、料理はまた任せるよ。」
「わかった。」
私は板前さんに彼が京都に初めて来たことや、なんでも食べられることを説明し、お任せで適当に出してもらうようにお願いした。
「今、板前さんにお任せしたから。Surrenderよ。」
「surrender?」
「そう、私の人生と同じ。」
「どういうこと?」
知らないことに出くわすと、Denisの顔は好奇心に変わる。
「お手上げ。全部お任せするってこと。私の人生もすべて神様にお任せしているから。」
「何の神様?何の宗教?」
「宗教じゃないわ。何の宗教の信者でもないし、信じてもいないし。私の神様よ。」
「ケイが教祖ってことか。」
「はは、そういうこと。」
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