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 私はその頃、数年付き合った男と別れて、仕事もあまり順調ではなく、文字通りお手上げ状態だった。離婚もしていたし、振り返って人生で成功といえるのは、有名大学を卒業していることくらいしかなかった。平凡なサラリーマン家庭に生まれて不自由なく大人になって、文句を言える環境ではないが、仕事も恋愛も何もかもが窮屈で行き詰ったように感じていた。付き合おうと思えば男はいくらでもいたが、愛することのできない相手と付き合うことはできない。まだ私は性懲りもなく愛する人に愛されたかった。 「僕は物心もつかないうちに洗礼を受けているからクリスチャンだけど、信仰してはいないしね。いい加減なもんだよ。」 「私はクリスチャンじゃないけど、教会は大好きよ。子供の時カトリックの学校だったからかな。お寺に行くと怒られているような気になって落ち着かないけど、教会ならずっといられる。修道女になろうかしら。」 「ケイが?修道女?ははは。」 「なんでおかしいのよ。」 Denisとの時間は仕事なのかデートなのか境界線をあやふやにしていた。同時に並行して進んでいたのかもしれない。  日本の酒と魚と接客を十分に味わって満足したDenisと店を出た。私は丁寧に板前さんにお礼を言い、Denisの感謝も日本語に変換して伝えた。来た道を逆方向に進む。ホテルに帰る。冷酒を二人で三合は空けただろう。私は心地よい酔いの中にいた。Denisは何も変わらない。西洋人の酒の強さにはいつも驚く。彼らは水のようにアルコールを受け入れる。  取り留めのない会話を交わしているうちにホテルが見えてくる。この先が私の脳の片隅に浮遊する。それはDenisから送られる見えない信号でもある。彼は私に信号を送り、脳に接続してくる。二人の視線が、合う度に同じ数分後を作っていく。  ホテルのエレベーターホールには、一組の老夫婦がエレベーターを待っていた。私たちの数十年後、という言葉でも映像でもない波動のような感覚が私の額を抜けていった。私は奇妙な目眩を振り払って、その夫婦の脇で待つ。上階行きのエレベーターに老夫婦と乗り込み、口を閉ざす。日本人は公共の場では話さない。Denisも承知している。私は13階のボタンを押して隅に立った。老夫婦は14階を押した。私は老夫婦と何の意味もないその空気を穏やかにするためだけの微笑みを交わす。  13階の扉が開き、私はエレベーターを降りる。Denisが後に続く。1302私の部屋に先に着く。彼はこの先の1311の部屋に歩を進めるはずである。エレベーターを降りてからも、私たちは一言も発していなかった。あれほど話しながら帰ってきたのに。
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