1 テールライト

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1 テールライト

「少し出てくる」  告げるでもなく言い残し、23時に家を出た。親からの返事はない。帰ってくればきっと眠っているだろう。  夏のじっとりした空気を半袖から出た腕と頬に感じる。風呂上がりの髪がすぐに湿気を纏い張り付くようだった。  夜中のエレベーターを降り、一つ息を吐いた。すぐ近くのトラックが何台も通るような大通りに出て、道沿いに歩く。深夜営業のラーメン屋やコインパーキングの明かり。背の高い木に負けない街灯が点々と歩道を照らしている。  コンビニ前の横断歩道で赤信号が変わるのを待つ。車の赤いランプは有名アニメ映画の蟲を思い出させた。  右手にスマホを持ち、何度かそれをちらちらと見る。『着いたよ』の後は無い。  ネットで出逢ったAさんと、今日会うことになっている。男だということは分かっているが年齢も知らないAさんと、趣味が合ったわけでもなく目的があるわけでもない。ただ毎日のように消えたくなる気持ちを彼は聞いてくれて、会ってみようという話になっただけ。  赤信号の時間を示す点が減っていき、ポンと青に変わった。  止まっている車のライトに照らされるのは少し恥ずかしい。誰も俺のことなんか気にしていないと分かっているけれど、歩行者の俺は見られているだろう。スポットライトのような強い光。俯いて横断歩道の白を見る。子供の頃は白線だけを飛ぶように歩くこともあった。今はそんなこと、もうしない。  一つ一つ青信号の点が減っていく。大通りの中ほどにある一時待機場所を通り越し、点が半分過ぎたころに渡りきった。俯いたまま約束の場所を目指す。深夜までやっているボウリング場の前。目立つからここらを知らないAさんにも分かりやすいだろうと決めた場所。  屋上にボウリングのピンがそびえたつ建物の前に、銀色の車が止まっていた。手元のスマホに新着メッセージはないけれど、画面を見ながらそちらに歩む。車の外、一段高い歩道の縁石に立つ男性がAさんだろうか。彼の顔も服も体型も何も知らないから確証はもてないが、この時間のこんなところに路駐している人もあまりいないだろうと思った。 『どこにいる?』  メッセージを打とうか、としている時にAさんから来た問い。すぐに、『着いたよ。ボウリング場の下』と返す。おそらくAさんだろう半袖シャツを着た男性の、手元のスマホが明るく光る。彼は顔を上げてこちらを見て、それから辺りを見回した。間違いなくあの人だろうと、ゆっくり近づく。  人のことは言えないが、何の個性もないようないわゆる中肉中背で黒髪の男性が、もう一度手元を確認してから少し緊張した笑顔を見せた。 「イチくん?」  周りに人がいないから聞こえるくらいの声で名前を呼ばれた。 「そうです」  ボウリング場入り口の明かりで照らされた顔は、優しそうな顔をしている。少し神経質な印象を見せる細い縁の眼鏡をかけたその人は、助手席のドアを開けて「どうぞ」と言った。何と言えばいいのかわからず、俺はお邪魔しますと言いながら乗り込んだ。 「どこか行きたいところはある?」  後続車が無いか確認しながら運転席に乗り込んだAさんは、俺にペットボトルのお茶をくれた。水滴が手を濡らす。 「特には」 「そっか」  駐車中であることを示すライトの音だろうか。静かな車内でカチカチと、一定の音が鳴っている。  ハンドルにもたれかかったAさんは、ただ静かに前を見ていた。特に話すこともなく、俺は助手席に寄りかかってぼんやりとそれを見ていた。横道に反れるルートのこちら側にはあまり車は来ず、反対車線ではいくつものライトが通り過ぎる。車線中央の大きな木がまるでこちらとあちらの世界を分断しているようだった。  クーラーの効いた車内は涼しく、家からここまでのべたついた熱気はない。寒いわけではなかったがぶるりと震えた。それが何だか恥ずかしくて、貰ったお茶に手を付ける。一口だけ飲んで、また蓋をした。  真綿で締められるような閉塞感。初めて会う人と二人きりの車内は少しだけ怖かった。この人はここで今俺の体をぐちゃぐちゃにしてどこかに捨てに行くこともできるな、とぼんやり思う。自分から乗り込んだのだから、連れ去られたと目撃情報を話す人もいない。 「少し走ろうか」 「はい」  こちらを見たAさんが、ゆっくりとハンドルから体を起こしてそう言った。俺の意思は特になくただ返事をした。 「シートベルトしてね」 「あ」  うちには車が無く乗り慣れないものだから、そんなことも忘れていた。垂れ下がるシートベルトをどの程度の力で引けばいいのかも分からず、引っかからせながら引く。シュルリと右から音がして、運転席からAさんの手が伸びてきた。こちらに傾けられた体に緊張して息を止める。体を斜めに通りカチリと固定されたシートベルト。ここに挿すんだなと太ももの横を見ながら確認した。  カチカチ鳴っていた音が止み、車が動く。道を曲がり大通りに合流しようと信号で止まった。  Aさんは笑うでもなく怒るでもなく無表情で前を見ていた。だから俺も前を見た。  信号が変わり走り出すと、すぐに知らない風景になった。俺はあまりこちら側には来ないから、本当に数分で知らない風景だった。放り出されたら帰れるかなと、尻のポケットにある少しの金しか入っていない財布の存在を意識する。  車が走るゴーというまるで地鳴りのような小さな音。助手席の窓から見た外には歩く人がほとんどいない。夜中だからこんなものだろうと思いながら、そんな時間に全く知らない人の車に乗っている異常さに少しの興奮を覚えた。  先ほどから見るコンビニは同じものばかり。豚骨ラーメンだとか、営業中だとか、まだ立っているのぼりの宣伝を目で追った。 「何か曲をかける?」 「何でも」 「どうしようかな」  せっかく訊いてくれているのに、俺の返事は先ほどから同じようなものばかり。音量もそこそこに流れ始めた曲は全く知らない、歌の入っていないものだった。Aさんはこういうのが好きなのかな。知らない曲の音を追えなくて、ただ耳に流す。  深夜の一般道は全く混まず一定の速度で流れていく。時折信号で止まって、また走り出す。深夜営業の店も大体は飲食店で、知らない街だとしても物珍しいものもない。  曲が変わり、今度は男性の声が流れてくる。英語の曲はピアノの音がポロポロと雨粒のように落ちてくる。 「この曲好きだな」  夜に聞くからいいのかもしれない。静かな街に静かな曲。 「ごめんね。タイトルとかはわかんない」 「あー別に……」  気を使ってくれているのにうまく返事もできない。ちらとこちらを見てAさんが言ってくれたのに、目も合わせず俯いた。  人とうまく話をすることができない。寡黙なわけではなく、慣れない人との会話をした後もっと良い返しがあったんじゃないかと自問してしまう。コミュ症なのだろう。認めたくないけど、それ以上に当てはまる言葉もない。 「イチくんは、17歳だっけ」 「そうです」  ただ肯定だけを横顔に返した。  イチというのは俺の本名ではない。Aさんが匿名のAであるように、イチも本名に掠りもしない。お互いに知っているのはそんな名前と、フリーのメールアドレスでアカウントが取れてしまうメッセージアプリのIDだけ。Aさんは今日ここまで俺を迎えに来てくれたから俺がこの近くに住んでいることは分かっていると思うけど、詳しい住所まではわかりはしない。 「私の半分だなぁ」  Aさんの独り言のような言葉にどう返そうかと悩む。そうなんですねとだけただ言えばいいのか、もっと違う返しをするべきなのか。悩んでいるうちに時間は経ってしまって、今度はそれにまた悩む。  一般道をひたすらにまっすぐ走る。隣に座る、俺より倍年上だという夜の光に照らされたAさんの横顔は、日光の下とは異なるだろう。  片道二車線の道路で追い抜き追い越していくトラックや普通車を見るでもなく見ていた。車種なんかわかるわけもなく、白いとか黒いとかそんなものばかりを目で追った。  静かな音楽と地を這うような道路を走る雑音。この雑音(ノイズ)はテレビの砂嵐や母親の胎内のようだなと思う。一定の音がずっと流れているとなんだか安心する。  知らない人と二人だけという緊張はいつの間にか無くなっていた。また一口お茶を飲み、蓋をする。冷たかったお茶は随分とぬるくなっていた。先ほどまでついていた水滴が、Tシャツの腹の部分を湿らせている。体温が特別高いわけでもないが、ずっと抱えていたからぬるくなってしまったんだろう。  助手席の窓側に頭をつけ、その硬さを感じながらどこを見るでもなく呼吸をする。  Aさんと会うのは、本当に何の目的もなかった。ただぽつりぽつりとどうでもいい話をする中で、会ってみようかとなっただけ。特別な感情を持っているわけでもなく、会うメリットもなかった。  クーラーに冷やされ、小さくくしゃみが出た。Aさんはそれを見て、車内の温度を0.5度上げた。 「風嫌だったらここ閉めてね」  トントンとAさんの近くにある吹き出し口を指先で示す。俺の前にもあるそれの風向きを直接当たらないように少しだけずらした。  車内の時計はもうすぐ23時30分になろうとしていた。なんとなくポケットにしまっていたスマホを取り出し時間を見る。大きな誤差はない。 「もう、帰る?」 「あ、いや……」  帰りたがっているわけではない。ただ時間を見ただけ。車内の居心地は悪くなく、随分と落ち着いていたから時間が過ぎるのも早かった。 「あんまり若い子を連れまわすのも良くないからね」  Aさんは苦笑するように言った。 「別に……」  全く嫌ではないけれど、名前も知らない年の離れた人と二人深夜にふらふらしているのはやはり変だろうとは思った。誰と会ってきたとかどこに行ってきたとか、素直に人には言えないような関係。「ネットの知り合いとドライブしてきた」といえばそんなに不自然でもない気がするけれど、それが倍以上年が離れた人で、名前も知らないともなると状況は少し変わると思う。  今までまっすぐ走っていた道を、Aさんは曲がった。今どれくらい家から離れているのかもわからないけれど、きっと道を戻るのだろう。なんだか少し残念だった。来た道を戻ってしまえばもう終わりだ。無限に続くような気がしていた道は終着地点が見えている。 「もう少し」  何と言えばいいのか分からなかった。何て続ければいいのか分からなかった。その先が無いまま独り言のように落ちていく。  前を向いたままのAさんは気にした様子もない。一人恥ずかしくて、一人気まずくて、今度はごくごくとお茶を飲んだ。ペットボトルの半分も減っていない。  帰り道は先ほど見たような見ていないような風景が続く。行きと同じようにのぼりを眺め、コンビニの光を目に入れた。看板の文字を脳内で音読し溶かす。 「また誘っていい?」  その声に窓から目を離す。Aさんと一瞬だけ目が合った。 「あ、はい」  誘ってくれたことに安堵した。上手く返事もできない俺との時間は嫌じゃなかったんだなと思わせてくれた。  知らない曲を耳にしながら、静かに車が走る。いずれ家の近くだと分かる場所まで戻ってきた。あの信号を超えてしまえばもう家に行く。 「あの、そこのコンビニくらいで」  待ち合わせ場所に向かうときに通ったコンビニ。虫を寄せ付けるような明るい光。 「コンビニ越えたくらいで下ろすね」  信号から離れたところで路肩に寄せる。後続車が横を過ぎて行った。行きよりも帰りの方が随分と早かったように思う。同じ距離を走っているだろうにどうしてか。  シートベルトを外すのに手間取っていると、Aさんが留め具を外してくれた。そんなこともできないのが情けない。 「またね」 「はい」  眼鏡の奥の目が優しく笑ったようで嬉しかった。  そろそろとドアを開け降りる。縁石から歩道までぴょんと移動してから振り返り、窓を開け手を振ってくれるAさんに振り返した。  後続車が来ないのを見計らって走り去る車を見送って、手にしたペットボトルを持ち直した。  初めて会う人との深夜のドライブは少しだけ緊張して少しだけ気まずくて少しだけ楽しかった。  行きと同じように過ぎ去ったコンビニの前を通り家に帰る。涼しかった車内とは違い相変わらず空気はべたついていて、あまりいいものではなかった。  家に帰り鍵を開けると室内は暗く、やはり親は既に寝ているようだった。Aさんと会う前に風呂に入っていたから、絞ったタオルで少しだけ汗を拭いて布団に入る。自然と欠伸が漏れた。知らない曲が頭の中に戻ってくることは無く、ただ暗闇に光る車の赤いランプだけが思い出された。
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