ジユウニナリタイ

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ジユウニナリタイ

(彼女自身による証言) 「」  意識が薄れゆく中、私の喉を押し潰すように締める男はそう言って薄く笑った。薄く笑う彼の目には、何の色もなく。いつものように気道も血流も奪われた中で、男の呪いのような言葉を受けた私の視界はそこでブラックアウトした。    次に目を開けた時、見えたのは何の変哲も無い自宅の天井であった。私の身体を手酷く暴いた男の姿はもう無くて。人の事を好きにして、それが終われば用無しかなんて思わず乾いた笑いが溢れてしまう。左手に光る銀色が、重い枷のように感じた。その枷を贈った相手に恋や愛を感じているのかといえば、そうではなくて。世間一般で言う夫となった男とは、間違いなく友人ではあったが恋人であった事は今に至るまで一度としてなかった。 「何処かで野垂れ死なれて、それを知らないのは俺には無理だわ」  彼はそう言いながら深夜のファミレスで私に指輪を渡してきたのだ。そんな彼の言葉にイエスの言葉を返したのは、単にその時に私がそれに反論する気力を無くしていたからだ。仕事を辞めて、旅から帰ってきた私の心は歪な形の穴が開いてしまったのか、埋め方も解らずに空虚なままだった。愛も恋もない結婚。しかもそれを相手も理解した上でのプロポーズ。実家で次の仕事を探しながら反りの合わない家族と共に過ごすよりもいかに私が人間として欠陥を持っているのかという事を既に知っている相手と暮らす方が楽だという結論は、数秒も待たずに弾き出された。――そうして私は笹野という苗字から舞島という苗字へと名を変える事となる。舞島との暮らしは予想以上に私にとって楽なものであった。彼は私に家事を求める事はなく、彼が求めたのは同じベッドで眠り仕事に出る彼を送り出すという二つだけだった。同じベッドで目を覚まし、仕事に向かう彼を送り出し、気が向けば日雇いのバイトで日銭を稼ぐ――そして、夜は同じベッドで眠りに就く。しかし大学生の頃に出逢ってから今まで、彼と私の間では性的な接触というものが一切行われてはいなかった。流石にそれだけではヒモ生活も甚だしい――ヒモだって私よりも相手へ奉仕しているだろう――だから、食事くらいは用意しようという努力は行なうようにしてはいた。そんな生活をだらだらと送っていた私は、埋め方が解らずそのままにしていた歪に空いた心の穴からをすべて落としてしまっていた。 「久しぶり」  そう言って私と彼の家に現れた男は、以前と変わらない胡散臭い笑みを浮かべて立っていた。それは舞島との生活を始めてから一年と少しが経過した頃だった。その男を拒絶する術を、大事なものを落としてしまっていたらしい私は持ち合わせていなかった。以前の私であれば、笑ってその誘いに乗っただろう。本気で嫌なら蹴飛ばす事も出来た筈だ。男と女という性差はあれど、私は相手の急所を狙う事だって躊躇はしなかったから。それに私は目の前の男が使う暴力が、どんなものかも知っていたのだ。私は笑って誘いに乗る事も暴力を使って相手を追い返す事もせず、ただただ無感動に男のされるがままとなったのだ。――そしてその極め付けが、「つまらなくなったね」という薄い笑みの中から零された言葉である。まるで、子供が飽きた玩具を捨てるように言い放ったその言葉はひどく残酷な響きで私に届いた。気怠さの残る性のにおいが纏わりつく身体をベッドから起こせば、その行為が終わった後に意識を失った私を放り男が帰ったのであろう事を知る。あの男の事だ、今回も勝手に人の中でその欲を放ったに違いない。避妊具を使った形跡もない事を私は冷えきった脳内でだけ確認をしていた。男との関係は、。――むしろ今までの私の行なってきたもの全てが、結局は暇つぶしでしかないのだ。 “生きてく事など死ぬまでの暇つぶし”  昔聴いた曲の中で、誰かがそう歌っていた事を不意に思い出した私はゾッとしてしまう。こんな暇つぶしが死ぬまで続くのか。まともに生きれない、暇つぶしの相手にすらつまらないと言われるこんな時間が、この後も何十年と続いていくのだろうかと恐ろしくなってしまったのだ。窓の外は茜色に染まっていて、きっとそろそろ同じ屋根の下で暮らす男が帰ってくる。――終わらせなくては。空虚に蝕まれる私の心の中に、その単語だけが浮かぶ。私はベッドから飛び出して、台所に走る。そんな広い空間ではない家だ、少しだけ足を動かせば目当てのものがある棚の扉に手が届く。シンクの下にある収納スペース、扉の裏に差された数本のそれから赤いプラスチックの柄を握り、肉を切る為に買ったスイス製のそれを抜く。研ぎ澄まされた銀色が、窓の外から射し込む茜色を反射していた――。  きつく握ったプラスチックから伸びるその刃を、私は自身の手首へと振り下ろした。 (笹野葎花 二十九歳)
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