ひとでなし

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ひとでなし

(彼女の弟による証言)  姉は人でなしだと思う。バイトを終え実家に帰るのも面倒臭かった俺は、留守が多い姉の家へと向かう。大学に入ってから一人暮らしを始めるまでの間も実家にはあまり帰って来なかった五歳年上の姉は、また誰かの家に転がり込んでいるのだろうと思ったからだ。珍しく電気の灯った部屋の窓を見て、今日は帰って来てんだ。なんて他愛もない感想を抱きながら姉から渡されていた合鍵で部屋に入れば、履き古された姉のものであろうスニーカーの隣にちょこんと女物の小さなパンプスが揃えられていた。「珍しいな」思わず口から零れた言葉は、恐らく部屋に居るのだろう姉らには届いてはいないだろう。可愛らしいデザインのそれは、サイズ的にもデザイン的にも姉が選ぶ事は決してないものであり姉が女をこの部屋に連れ込んでいる事を示唆させる。俺がリビングへと入れば、案の定ソファの上で絡み合う二人の女の姿があった。 「愛してるよ」  愛を囁くには低い温度のようにも聞こえた声は姉のもので。そしてそれを囁かれた女は、そんな姉の言葉に頰を染め姉から与えられる愛情表現に見えるそれを甘受していた。――そしてその時、そんな光景を見ていた俺と女の視線がカチリと合ってしまうのだ。その女は面白いくらいに顔を真っ赤にして慌てて姉と「友人だ」と言い訳のできる程度の距離まで離れていった。 「あぁ、弟。タダオミ、今日はこっち泊まるの?」  突然の闖入者である俺の姿にも動じる事なく姉は女に俺を指して弟であるとだけ告げ、俺に向けて宿泊の是非を問う。「そのつもりじゃなきゃこっちには来ない」思わず漏れ出る溜息と共に彼女たちへとそう告げれば、姉はチラリと壁に掛かった時計を見やり「まだ終電あるだろ」と口にする。だってこれから家帰るの面倒じゃん、と口を開きかけた俺の言葉を封じたのは女の言葉だった。 「笹野さん! 私帰りますから!」  慌てたような女の言葉に姉は「そうか?」と首を傾げてから「じゃぁ、明日はそっち行くから」なんて表情も変えずに言葉を重ねる。俺に見せつけるように女の頬にキスを落とした姉は、一見すると気障ったらしい優男のように見えた。元々父親似であることもあり中性的で整った容貌の姉はそう言う事をすると途端に優男のように見えるのだ。その上それを無意識にやるから始末が悪い。恥じらう乙女のように頰を染めたままパタパタと俺の隣を駆けてこの家から出て行く女の後ろ姿を見ていた姉は、ドアが閉まる音を聞いてからいつもと変わらない普段の姉が見せる口端だけを上げる笑みを浮かべ、からりと笑いながら俺に告げるのだ「今の彼女、可愛いだろ」口端だけを上げて自慢げな声でそれを告げた姉の瞳には愛情なんてこれっぽっちも存在していなかった。 「人でなしかよ」  零れた俺の言葉に「人聞きが悪いな」と彼女は笑う。普段は神経質で真面目そうな雰囲気を纏っている姉は、面倒臭げに息を吐きソファから腰を上げる。気怠そうにキッチンへと向かう姉が本来の姉の姿である事を、二十年彼女の弟をしている俺はつい数年前に知った。もっと詳しく言えば、彼女が一人暮らしをはじめて俺が大学生になり姉の家に転がり込む事を覚えた辺りから。それでも俺は姉を嫌いにはなれなかったし、寧ろ今までの真面目を装う姉よりも好感を持っていたくらいだ。たまににぶち当たる事はあるけれど。 「でも、珍しいよな。姉ちゃんが家に連れ込むの」  普段は相手の家に行き、自分の家には彼女が気を許した友人以外滅多に人を連れ込まない事を知っていた俺はそんな事を口にする。俺の言葉に顔を顰めた彼女は「どうしても行きたいってゴネるから、仕方なくな。お前が来たの丁度いいタイミングだった」なんて悪人が浮かべる笑みで親指を立てる。「ま、」姉が続けてポツリと零した言葉に、俺はゾッとする。今までも何度か見聞きした彼女の様子に、姉はあの女へ恋も愛も注いでない事に気付いたからだ。姉は誰にでも合わせることができるけれど、その本心はいつも別の所にある。男も女も受け容れるくせに、去って行く相手に追い縋る事は全くしない。トラブルに巻き込まれれば、きっとその相手を冷たい目で切り捨てるのだろう。他人に興味などないのだろうかと思ってしまう程、彼女は誰に対してもフラットで。たまに姉は人間の振りをしたロボットか何かなのだろうかと思ってしまう事があるくらいだ。その代わり、一度気を許した相手には素を見せてくるのだが。その行為だけが、彼女が人間である事を示しているのだろうと、俺は思っている。「人でなし」もう一度だけ、彼女にその言葉を告げれば彼女はいつのまにか咥えていたタバコに火をつけながら苦笑を浮かべて「そうかもな」とだけ口にした。 (笹野葎花 二十四歳)
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