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杏里が水泳の強化選手に選ばれたのは、小学校4年の時。
水泳の授業で、クロールの真似をして手足を動かしていたら、「こうやって動かすんだよ」と担任がちゃんとした形を教えてくれた。
クラスの子の、一人ひとりをよく見ていた先生で、身体も細くて小柄で、運動も勉強もそれなりで、取り立てて『これ』というものがなかった杏里に、何か得意なことを見つけてやろう、と考えてくれたのだと思う。
その地域の学校では、年に一度大きな記録会があって、強化選手に選ばれると夏休み中はずっと練習があった。
毎年、水着に覆われていないところは茶色に日焼けして、母と一緒にお風呂に入ると、いつも「白い水着を着ているようだ」と言われたものだ。
大会では毎年、決勝の8人に入ることができて、杏里に大きな自信を与えてくれた。
それで、中学・高校と水泳部に所属し、個人メドレーの選手になった。
背泳が一番得意で、クロールも好きだった。
インターハイの常連だったので、大学からスカウトが来て、特待生で入学した。
それでも、全国大会ではいつも、決勝の手前で負けてしまい、テレビに映ったことはなかったけど。
…広いプールのほぼ真ん中に浮いている自分を、空から見たらどんな風に見えるだろう。
両腕を左右に精一杯伸ばし、目を閉じると、水に溶けそうな気がする。
一分一秒でも早く、と思いながら泳いでいた頃には、こんなふうに水と戯れる余裕もなかった。
…あまり空ばかり見ていると、顔が日焼けしてしまう。
そう思って、身体の向きを変えてうつ伏せになると、ゆっくりと腕を動かし、顔を水面から出したまま、平泳ぎのような適当な泳ぎ方で反対側まで行ってみた。
プールの縁に腕を乗せ、木々の向こうに見える海を眺める。
…海で波と戯れるのも良いけど、やっぱり私はこっちだな。
反転してプールに向き直ると、両腕をプールサイドに乗せて身体を預け、軽くバタ足をする。
プールの中心を通って反対側までいくと、50メートル以上はありそうだ。
また水中に一度沈んでから壁を蹴って、今度は水面を進む。
水温に慣れ、自分の身体が柔らかくなって、水と一体になる。
試合の時、たまに水の抵抗を感じない日があった。
多分、自分の調子が良いからそう感じたのだろうけど、そういうときは記録が良かった。
どうしたら毎回そうなれるのか、といろいろ試したこともあったけど、思春期の身体はなかなか言うことを聞いてくれなくて、最後まであがいていた。
…ここを乗り切れた人が、メダリストになれるんだろうな。自分とどこが違うんだろうな。
そう思いながら、大きな試合の最後はいつも観客席だった。
全身の筋肉を動かすつもりで、緩めのクロールや平泳ぎで反対側まで行くと、今度は背泳で戻っていく。
肩から大きく腕を動かし、足を柔らかく使う。
ペットボトルを頭に乗せて練習していた頃が懐かしい。何度も水中に落としたな…
潜ったり、泳いだり、浮いたりしながら、しばらくプールを独り占めして楽しんだ。
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