2日目

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「観光は? どこか見に行った?」 「有名な観光地は一度行ってるから。今回はホテルを楽しもうと思って。でも一カ所だけ行きたいところがあるの」 「どこ?」 杏里は地名ではなく、建物の名前を挙げた。 「歴史のある建物だね。今は博物館になってる。もしかしてそこからの景色が見たいの?」 「そう。建物にも興味はあるんだけど、そこから海辺の街とあの橋が見えるんでしょう? 夕暮れ時とかとても素敵らしいから」 「そうだね。時間が合えば案内してあげる」 「本当? ひとりで行くにはちょっと心配だったの」 「分かった。僕の運転で良ければ乗せていくよ。車はホテルの名前が入っているやつで良ければ借りられるし。あ、でも、いつまでここにいるの?」 「あと3泊。最後の日は買い物して帰るだけかな」 「そうなんだ…。ちょっと調整してみるね」 「無理しないでいいよ。もし今回行けなければ、また来ようって思えるから…」 そんなふうに言うと、彼はちょっと微笑んで、いいね、と言うように頷いた。 「僕も聞きたいことがあるんだけど…」 グラスを口に当てたまま、何?と目で聞いてみる。 「今朝、そこのプールで泳いでいたの、杏里だよね?」 …見られてたのか。 うん、と頷くと 「杏里って水泳の選手だったの?」 別に隠しておくこともないか、と思って「そうだよ、でもたいしたことないよ」と答えた。 「高校の時、全国10位くらいだったの。それで大学に推薦してもらって。でも結局、上位に行くことはできずに終わったんだけどね」 「すごく綺麗な泳ぎだったから、思わず見入っちゃったよ。無駄な力が入ってないっていうのかな。何か水と一体化しているみたいに見えた」 褒められたのは嬉しかったけど、誰も見ていない前提で、好きに泳いでいたからちょっと恥ずかしかった。 「こういうプールで、選手の頃の泳ぎをすると、周りの人に退()かれるんだよね。だから人気(ひとけ)のない時間に来てたんだけどね」 「凄く綺麗だった…」 と、慧が言い終わらないうちに、彼のポケットに入っていたらしいスマホが振動を始めた。 ちょっとごめん、と席を立って、少し離れたところで会話を始める。 杏里はその間に、赤い宝石のようなチェリーを口に入れた。新鮮なその実は、熟していて甘い。 「…ごめん、戻らないといけなくなったから、またね。それ食べてね、部屋に持って帰ってもいいし」 元の椅子のところまで戻ってきたものの、もう座ることもなく、杏里が気にしないで、と首を振るのを見ると、安心したように建物へと戻っていく。 気が付くと辺りは、うっすらと赤く染まり、夕暮れ時の雰囲気を醸し出していた。 陽が落ちるまで、まだ時間はありそうだ。 持ってきた雑誌を開いてみたけど、想いは字の上を滑り、自分の泳ぎを彼に見られていたことに、不思議なこそばゆさを感じていた。
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