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どちらかがリードする、とかついていく、とか、そう言った関係でなく、ただ一緒にいられる時間が楽しい人がいい。
退職と同時に律紀と別れてしまったので、恋愛するなら、またゼロから始めることになる。
別に結婚を夢見ているわけじゃないし、どうしても恋人が欲しいわけでもなかったから、焦ってもいないけど。
律紀とは、何となくタイミングが合って付き合い始めたので、まだ「こうしたい」という思いが湧いていなかった。
付き合いが長くなれば、いろんなことが分かってくるだろう、と思っていた。
…結果として、分かってしまったから、付き合い続けていけなくなったのだけど。
もう30を過ぎているし、ドラマみたいに燃え上がるような恋よりも、お互いあまり気を使わずに、長時間一緒にいることが苦にならない人がいいな、と別れてから思うようになっていた。
…こんなゆるりとした時間を、ただ手を繋いでのんびり歩くのが幸せ、というような。
律紀の、熱心に仕事に取り組んでいる姿が好きだった。
できれば女性の肌に優しい素材を使いたくて、でもそれが結構な単価だったので諦めていたら、メーカーに掛け合ってくれて、少しだけ違う素材が入った布があることを引き出してくれた。
それで、練習着の値段として販売できそうなところまで企画していたのに、上司のひと言で潰されてしまった。
杏里としては、そこまで一緒にやってくれていた彼が、あまりにもあっさりとあきらめてしまったことが意外で、自分との温度差を強く感じることになってしまった。
…切り替えが早い、と言えばそうなのかもしれないけど。
ただ、彼と話しているとき、よく「いや、社会とはそう言うものだから」とか「これはもう流れが決まっているから、ひとりふたりが意見を言っても変らない」とか言われていた。
その度に、自分の中にある思いを言い通せず、黙ってしまったことが何度もあった。
…きっとあの、自分の思いを途中で飲み込んでいた感覚が、彼との距離感に繋がっていたんだな。
でも、一緒に居る時間が長くなれば、徐々に折り合いをつけていけるんじゃないか、と思っていた。
それは自分が折れるばかりでなく、彼も少しはこちらに歩み寄ってくれるんじゃないか、とか、彼が好きなら、そういう性格も飲み込んで付き合っていけるんじゃないか、とか考えていたけど、律紀のあの性格と、私のこの性格では、長く続けていくことは無理だったかもしれないな、と思う。
でもそれも、付き合ってみたから分かったこと。
同僚という関係だけでは見えなかった、彼の気質や性格が、付き合ってみてはじめて分かった。
それで結果として、自分と合わない人だ、と気づくことができたのだ。
だからばっさりと終わりにしたくて、退社と同時に実家へ逃げて、その後ここまで来てしまった。
その時、道路を走るクルマから、ピッと短いクラクションの音がして、反射的に振り向くと、左ハンドルの運転席から誰かが手を振っていた。
通り過ぎた後で、ホテルの隣室の彼だ、と気づいた。クルマのボデーにホテルの名前が入っていた。
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