290人が本棚に入れています
本棚に追加
/34ページ
それに、周りが誰一人として自分を知らない、という状況が、今回はとても心地よかった。
旅人の中に紛れ込む感覚、とでも言おうか。
行動や姿を干渉されないし、日本人にありがちな「こうあるべき」という見方をされないのも楽でいい。
その分、これまでいかに、そういったものの見方や考え方にとらわれていたか、ということを実感する。
ワインのお代わりを飲み干した後、あまり酔っ払ってしまうとつまらないし、と思ってジュースにすることにした。
ジュース類は、料理が運ばれてくるキッチンの入り口前に並んでいて、自由に飲んでいいことになっている。
ポップの英文字を見ながら、グラスに氷を入れ、ジンジャーエールらしきものを注ぐ。食事中にあまり甘いものを飲みたくないのだ。
その時、右側の人のシャツの袖に目が止った。
白い袖に濃紺の燕の刺繍。目線をさりげなく上げると、やはりさっきエレベーターで出会った男子だ。
あまり見ていると、注目していることがバレてしまうので、そのまま身体を翻して席に戻ってきた。
彼はこちらを見ることもなく、テーブル席へと歩いて行く。隣にはさっきの女性が、向かいには40代くらいの男性がふたり。
ジャケットを脱いだワイシャツにネクタイという出で立ちは、観光客には見えなかった。
その時、メインの料理が運ばれてきて、彼女の思考は料理へと戻ってきた。
軽くあぶった白身魚の上に、トマト味のソースがかかっている。
白いお皿の空いたスペースに、そのソースでハートがいくつか描かれていて、運ばれてきたとき、思わず写真を撮ってしまった。
いくつになっても、こんな可愛いものは好きだ。そういうところは32だけど女子なんだな、と思う。
最後にベイクドチーズケーキが出てきて、しっかりコーヒーまで堪能した。
部屋に戻ると、リビングのソファに深々と座ってスマホをチェックする。
今回は海外旅行用のWi-Fiルーターを借りていた。
何を調べるにもスマホが必要だし、一日いくら、という設定なので気楽に借りることができる。
『ひとり旅はどう? 私がいなくて寂しいでしょ』
そんなふうに送ってくるのは、悪友の恵麻しかいない。
アプリのアカウントも変えたばかりなので、まだ繋がっている人も少ないのだ。
『淋しいよ~ 美味しい料理を一緒に満喫できる人がいなくて♡』
そんなふうに返事をすると数分後に
『こら~、一人でなに美味しいもの食べてるの?
退職&失恋旅行か~ お土産期待してるからね』
ふふふ、と笑って『了解』とスタンプで返事をする。
ふとショートメールが来ているのに気づいて、アプリをタップする。
『今どこにいる? 逢いたい』
ハッとして、そのメッセージを消去した。
ついでに、送ってきた番号も着信拒否にする。
杏里は、気持ちが急に日本に引き戻されたことを感じて、自分を呪った。
彼との連絡用に使っていたアプリのアカウントを変えれば、もうコンタクトは取れないだろうと思っていた。
さすがに電話番号まで代えるのは嫌だったので、ショートメールという、ある意味、古典的な手段があることを忘れていたのだ。
暗くなった画面をしばらく眺めて、放心状態になっていた。
ふと顔を上げると、壁に掛けられていた青いアートパネルが目に入った。
…そうだ、今、私がいるのは日本じゃない。もう過去にとらわれるのは止めよう。
スマホをテーブルに置くと、バスルームへと向かう。
窓の外はもう暗くなっていたけど、遠くに灯がちらちらと見える。
ゆっくりとお湯に浸かって身体をほぐそう、とバスタブにお湯を入れ始めた。
最初のコメントを投稿しよう!